契丹古伝(東族古伝)

 契丹古伝(東族古伝) 




契丹古伝(東族古伝)とは?

契丹といえば、多くの人は10世紀に今のモンゴル一帯に勢力を張った存在として認識するかもしれない。 ただ、そのルーツはもう少し東寄りであって、かつては匈奴の東方に位置していた。
それだけに、契丹は東アジアの諸民族との関係が深い民族といえる。
契丹古伝は、もともと題名を欠く秘本であり、誤解を招きやすいが、 契丹王家が発見したという意味不明の神秘的な詩に絡めて、それに関連しそうな史料を収録したという かたちをとる書物なのである。
そして、その史料のほとんどが東アジア(日本を含む)について述べたものであり、そこには 紀元前の日本の姿を垣間見ることができる。

また本書には、神話部分を含め、多くの古語が散りばめられているが、それらが不思議にも日本神話の人名を彷彿とさせたり、 日本語の古語を思わせる単語であったりするのも興味深い点である。

契丹古伝は、浜名寛祐氏が日露戦争の軍務遂行中に満州の奉天所在の某寺で写し取ったという「某陵の秘本」とされるが、 その点に疑いがかけられ、かつての日本の大陸進出という時代背景で成立したものと見られがちな存在ではある。
しかし、その内容は示唆にとみ、現代においてもその内容は色あせるどころか、一層説得力を増している。
これは、日本古代史の解明の大きな鍵となるばかりでなく、現代の日本や世界にも不思議な光を投げかける ものといえる。
もし、これが明治期に軍部等により作出されたものであるとすれば、相当な秘伝・古伝に通じたものが 大変な知力を駆使して作ったものといわざるをえない。それほど貴重な情報が含まれているものなの である。
しかし、その内容が理解困難であることから、他の文献解釈の際の単なる補強材料として用いられたり、 あるいは理解困難な部分を「どうとでも解釈できる」ことにしてしまいそれをトンデモ本的な想像力 で補ってしまう解釈が横行し、本古伝の真意を真正面から解釈しようとするものはほとんどない。
しかし、当古伝は、「作り話を延々と講じる」タイプの文献とは明らかに異なり、簡潔な中にも 深遠な内容を有しており、他の文献に引きづられることのない正攻法の解釈が必要である。
このサイトは、その一端をご覧にいれるように努めるものである。

※当サイトは工事中です 読み辛い点は御諒解願います。

  凡例
原文の旧字体は、読み下し文では原則として新字体に改めたが、一部元のままにしてあるものもある。
「読み下し文の口語直訳(の様なもの)」は、読み下しの文語調に馴染みがない方のために、 読み下しの雰囲気を感じ取って頂くため、やや舌足らずの日本語になるのを承知の上で掲載したものである。
これは、(一般に見られる)饒舌な口語訳は、訳というより主観的解釈の披露の場となってしまい 、原文のニュアンスが覆い隠されてしまうことになるので、当古伝の正確な解釈をする上で妨げとなる ことがあるからである。
読み下し文では旧仮名遣いを使用し、口語訳では現代仮名遣いを使用している。
読み下しは、浜名氏のものに従った部分が多いが、句読点など細部は多く改めた。
また、独自に読み下した部分もある。
それゆえ、口語訳を含め、無断引用・転載・出版等を禁じます。(契丹古伝ではないが、以前筆者に よる漢文読み下し・現代語訳を無断で出版した方がいた。このようなことは固くお断りします。)



第1章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
曰若稽諸。傳有之曰。神者耀體。無以能名焉。維鑑能象。故稱鑑曰日神體。讀如戞珂旻。 曰若 | ここ | これ | かんがふるに。伝にこれ有りて曰く。神は耀体。以て | く名づくる無し。 | これ鑑能く | かたどる。故に鑑を称して日神体と曰ふ。読んで戞珂旻 | かかみの如し。 さて、考えるに、伝には(次のように)云う。神は耀体であり、よく「名づけ」得るもの(表現)がない。 これを | かがみはよくかたどる。ゆえに、鑑を称して日神体という。読むと戞珂旻のごとくである。
(略意)伝によると、神は光輝く体を持ち、これをうまく表現できる名称がない。しかし鏡はこれをよく かたどることができる。そこで鏡を称して日神体(という意味の言葉)で呼ぶが、その 読みは戞珂旻 | かかみのように発音する。

(解説1)ここでは、神の姿を鏡がよく現すということと、鏡を「日神体」を意味する「 | | | 」という 言葉でよぶという伝承が記されている。ここで分かることは
1、神は、日神(太陽神)の性格をもっている。
2、本古伝のいう「東族(第21章参照)」の古語では鏡を「 | | | 」のように呼んだのであるが、 それは日本語の「かがみ」に酷似している(注)、の2つである。

(注) | | | は、上記「東族」の古語を万葉仮名風に記したものであるが、 ここで厳密には次の2点が問題となる。
まず、(1)「戞珂旻」という漢字をあてた際に 「戞珂旻という漢字自体の読み」としてどのような発音がそこで使われていたか ということ、及び、
(2)そもそも、「鏡を意味する東族古語の発音」と「(1)の発音」とが近似するがゆえに「戞珂旻という文字」があてら れた訳だが、では、その東族古語の正確な発音は何か、の2点である。
と、問題提起してはみたものの、(1)(2)を正確に特定することは実は困難である。
なぜなら、当古伝編纂の元資料は契丹のものとは限らず、その成立時期も不明であるからである。
 それでも、戞珂旻は、「かかみ」に近い音を表したということは否定できないであろう。 本古伝ではこのように、東族古語が日本語に近いものではないかという考えから、一つの漢字に一つのカナを振り仮名として付けるのが 浜名氏以来の通例となっている(無論例外はある)。これは当古伝独特の便宜的措置として、理解戴きたい。

(解説2)ところで、後出のように東族古語で「 | 」は「日」を意味すると明示されていることから推すと、 東族古語で「 | 」は「神」を、「 | 」が「体」を意味するのではないかという推理が成り立つ。
この点に関して、
「日」には、日本語でも「 | みっ | 」のように「か」の読みがある。
「神」は、日本語で「かみ」であるが、宇佐神宮の神官の | おお | 氏のように、「み」を省いた形も存する。
「体」を意味する語としては、日本語の身(「み」、古語で「む」)がある。一方旻の読みは正確には 特定できない(「み」か「む」か、あるいは中間的な音かもしれない)が、いずれにしても日本語の 「身(み・む)」に近似した音であろう。
そうすると、東族古語はまさに日本語に極めて近い語彙をもつ言葉ではないかという推理ができるわけ である。 (また、「かがみ」の語源が通常いわれるような「影見」ではなく「日の神の身体」という意味 ではないかという、興味深い考察をすることができる。)



第2章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
恭惟。日祖名阿乃沄翅報云戞靈明。澡乎辰云珥素佐煩奈。淸悠氣所凝。日孫内生。 | うやうやしく | かんがふるに。日祖、名は | | | | | | | | | | | | | | | | 、清悠の気の凝る所に澡す。日孫、内に生る。 | うやうやしく考えるに。日祖は、名を | | | | | | | | | という。清悠の気の凝る所である | | | | | | | において「澡し」ていた。すると、日孫が、内に生まれた。
ここでは、日祖が日孫を出産する様子が語られている。

(注)「澡する」とは、 | もく | よく、つまり水で身体を洗い清めることである。

(解説1)
ここでは、まず、この沐浴する女神を「日祖」という祖先神とする点が注目されるが、
この名の内「云戞霊明」の部分に注目すると、(1)戞は「日」である(19章、3章参照)ことから、これを 「う『日』るめ」と置いてみると、わが国の | あま | てらす | おお | みかみの別名オオヒルメ(大日孁)と酷似する名前である ことに気付く。
 (2)また、「阿乃沄翅報云戞霊明」全体も、どこか「天照大日孁(尊)」(天照大神の別名の一つ) を思わせる。
このようなことから、浜名氏はこの「日祖」即ち天照大神と同一神と断定している。この点は別途考察する。

次に、この女神の名が九音節という多音節であり、中国・韓国の人名・神名と大きく異なる特徴をもつ点が注目に値する。 このような多音節の名は古事記や日本書紀の神名を髣髴とさせることは確かである。

(解説2)
ところで、沐浴する女神が日の御子的存在を生むというストーリーは、いわゆる羲和伝説を思わせる。(詳細は後述)
恐らくこれはかなり古い時期に成立した神話の型であって、広い範囲に流布していたものが断片的に残されているのであろう。 (殷の「10個の太陽」の観念とも関係してくる話であろう。)



第3章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
日孫名阿珉美辰沄繾翅報順瑳檀彌固。日祖乳之。命高天使鷄。載而降臻。是爲神祖。蓋日孫讀如戞勃。高天使鷄讀如胡馬可兮。辰沄繾翅報。其義猶言東大國皇也。 日孫名は | | | | | | | | | | | | | 。日祖、之に乳し。高天使鶏に命じ、載せて而して降り | いたらしむ。是を神祖と為す。 | けだし日孫読んで | | の如く。高天使鶏読んで | | | | の如し。辰沄繾翅報は、其の義猶東大国皇と言ふがごとき也。 日孫は名を | | | | | | | | | | | | | という。日祖はこれに授乳し、高天使鶏に命じて、(日孫を)載せてそして降り | いたらせた。これを神祖と為す。思うに、日孫は | | の如く読み、高天使鶏は | | | | の如く読む。辰沄繾翅報は、東大国皇と言うような意味である。
ここでは、日祖という女神から生まれた御子(なぜ「孫」なのかは別途考察する) が鶏に乗って降臨するさまが語られている。
「鳥にのって神が降臨する」というのは東アジアの非漢民族にはよく見られる観念であり、
鳥越憲三郎氏は「倭族」の特徴としているほどである。

次に、 | | | | | ※については、その名が日本神話の | | さの | をの | みことに酷似している 点が問題となる。(※その読みの細かい点、用字については別に述べる。) ここでは、 | | さの | をの | みことは荒ぶる神とされるのになぜ | | | | | は日孫の地位を得ているのかということや、 | | さの | をの | みことの降臨地との関連等について興味が沸くが、詳細は別に述べる。

次に、日孫を「 | | 」という点が興味を引くが、「 | 」は「日」である(19章参照)ことから すると、「 | 」が孫を意味するものと推察される。この点日本語では天孫(あまみま)皇孫(すめみま) のように「みま」という言い方があり、みは丁寧語であるとすると「ま」が孫の意味であるといえよう。 そうすると、東族古語の「も」と日本語の「ま(孫)」が対応しているといえるのではないか。

高天使鶏については別途考察するが、鶏を意味する古語「かけ」との関係が考えられる。

辰沄繾翅報については、(詳しくは後述)他の章から推察すると「翅報」は「皇」、「繾」は「国」を意味し、 そして「辰」が「東」、「沄」が「大」を意味することになる。
ただこれには問題があって、「辰沄」はひとかたまりの語として頻繁に使われる(例「辰沄固朗」)だけでなく、 ○○辰沄氏、のように氏の名称にも使われる(しかも左のように末尾に置いてつかわれている)。
これは、 単に辰沄が「東の大きな」という形容詞ではないことを示唆する。そしてこれは おそらく「東の大いなるもの」ということで「(東天に昇る)太陽」を意味するものではないかと筆者は考えている。
なぜなら、和語には「太陽」を意味する古語として「しの」「しな」があったと解され、辰沄は左記古語と関係すると考えられるからである。(詳細は別記)


ところで、前章においては、日孫はどこかの海または河で生まれたようにも思えるから、その日孫が天から降りてくるのは矛盾を生じないかが問題となる。 この点は、日本神話の高天原も、河があり田があったりはするものの、その場所は天上にあると解されるのと同様に、前章の日孫の生誕地が天上にあるとしても神話としてはおかしくないと考えられる (本古伝は、第20章までは神話的色彩が濃い)。もちろん、東方の海上と解せないことはないが、その場合も観念的な聖地としての概念と見るのが妥当であろう。 ただ、本古伝の解釈者の中には、生誕地は東方の実在の場所(日本の海岸もしくは島)であると解するものもいる(この場合は、神祖は高天使鶏という船で降臨したということになろう)。



第4章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
族延萬方。廟曰弗莬毘。廷曰蓋瑪耶。國曰辰沄繾。稱族竝爲辰沄固朗。稱民爲韃珂洛。尊皇亦謂辰沄繾翅報。神子神孫國于四方者。初咸因之。 族萬方に | はびこる。廟を | | | と曰い。廷を | | | と曰い。国を | | | と曰い。族を称して並びに | | | | と為し。民を称して | | | と為す。皇を尊んで亦 | | | | | と謂う。神子神孫四方に国する者。初め | みな之に因れり。 族は「万方に」広がった。「廟」を「 | | | 」と曰い、「廷」を「 | | | 」と曰い、「国」を「 | | | 」と曰い、「族」の呼称としては「並びに(ともに)」「 | | | | 」と為し、「民」を「 | | | 」と称する。「皇」を尊んでまた「 | | | | | 」という。神子神孫であって四方に「国する」者は、初めはみな以上(の言い回し)に基づ(く呼称を用)いていた。
本章では、東族が使う種々の呼称が示されている。これらはいずれも民族にとって重要な語彙なのであろう。

そうするとやはり日本語との対比が問題となる。
浜名氏は | | | を「太霊」と解するが、「廟」の記述が「廷」 に先立つことからして、 | | | とは国皇の祖先神をまつる霊廟のことであろう。
そうすると、むしろこれは第20章と併せて検討すべきであり、和語「 | むす | 」と関係するのではないか(詳細は別記)。
また | | | を、浜名氏は「高天使鶏」と関連させるが問題があると思われる(別述)。
ただし、 | は「 | みや」や「 | みやこ」と関係するということはいえよう(11章以下参照)。
辰沄繾は、「東の大いなるもの」の国の意味、(前章参照)辰沄固朗は「東の大いなるもの」の民族の意味(注・から=和語「はらから(同胞)」の「から」と同じで、一族、血族の意味であろう)。
韃珂洛は、和語「おおみたから(天皇の民)」と関係があろう。(これらについて、詳細は別述。)



第5章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
或云神祖名圖己曳乃訶斗。號辰沄須瑳珂。初降毉父之陰。聿肇有辰沄氏。居於鞅綏之陽。載還有辰沄氏。是爲二宗。別嗣神統顯于東冥者爲阿辰沄須氏。其後寧羲氏著名五原諸族之間。 或は云ふ。神祖、名は | | 曳乃訶斗。号は | | | | | 。初め毉父の陰に降り。 | ここに肇めて辰沄氏有り。 | | の陽に居り。 | すなわ | また辰沄氏有り。是を二宗と為す。別に神統を嗣けて東冥に顕はるる者を。 | | | | 氏と為す。其の後寧羲氏、名を五原諸族の間に著はす。 あるいは云う。神祖は名を | | 曳乃訶斗、号は | | | | | といい、初め、毉父の陰に降臨し、ここにはじめて辰沄氏が現れた。また、 | | の陽に居て、ここにもまた辰沄氏が現れた。これらを「二宗」という。これらとは別に神統をうけて「東冥」にあらわれた者を、 | | | | 氏という。其の後裔たる寧羲氏は、五原諸族の間で著名となった。
(解説)ここでは、神祖の名の別伝を記し、その降臨と移動について簡潔にしるして、辰沄氏に二大宗家のあることを示し、さらに二大宗家とは別に | | | | 氏の系統があることを述べる。


図己曳乃訶斗を、浜名氏はとこよみかど と読み、常世の帝と解したり月読尊(天照大神の弟神)に宛てたりする。
この内、常世帝はともかくとして、月読尊については日本書紀の一書で素尊と同神とも思える記述があることから無視できない観点である。
ただ、これではまだ不十分であり、他の神名との比較検討が重要である(別述)。

次に、神祖の降臨地としてあげられた毉父は、今の中国東北部、遼西地方の医無閭山であるとされる(24章、41章参照)。詳しくは別に述べる。
この点について、第15章において降臨地として別の名(巫軻牟)が挙げられていることとの矛盾 を指摘する声がある。
さらにいうと、本章(第5章)の降臨地の方が編者の作為によるものである等として、第15章の降臨地こそ本来の降臨地であるとする 解釈がなされることがある。浜名氏も、その可能性を強く示唆しているし、、原田実氏も、契丹古伝の紹介をする際に 神祖の降臨地として当初から第5章を無視したかのような紹介の仕方をしている。
しかし、私はこのような考え方には強い疑問を抱くものである。
「作為」ということであれば、実は、私の研究によれば、第15章と第11章にも作為が含まれているという ことが判明しており(詳細は別に述べる)、本章の価値を低く見る考えには賛同できない。
次に、神祖がその後に移動した先らしい「鞅綏」という場所の解釈についても、実は問題があり、上記浜名氏の考えなども、この解釈に影響されて いるとすれば、結局第11章の作為に引きずられているということにもなるのだが、詳細は別に述べたい。


次に、二大宗家と | | | | 氏については多くのことを語る必要があるが、ここでは一点だけ述べる。 この後者(「東冥」にあらわれた阿辰沄須氏)は、後の章にも「東表の阿斯牟須氏」等として登場する 重要な存在であるが、どうやらこの東表は、日本列島内に存したと考えられる。 浜名氏も当然そのように考えている(「冥」は「溟」と同じで海の意である等とする)し、本章や30章 からして、東表は二大宗家からかなり離れた場所にあるということ、その他37章の位置関係からして も妥当であろうと考えられる。

ただ東表が日本のどこに存したかということと、いかなる氏族であるかということについては 争いがある。詳しくは別に述べる。



第6章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
因亦念之。雖世降族斁。瓜瓞猶可繹綿緒而格其原壤。例如瑪玕靺鞨渤海同聲相承。珠申粛愼朱眞同音相襲。傳統自明也矣。乃爰討探舊史作次第如左。 因って亦之を念う。世降り、族 | やぶると雖も、 | くゎ | てつなほ綿 | めん | ちょ | たづねて其の原壌に | いたるべし。例へば瑪玕・靺鞨・渤海、同声 | あい | け。珠申・粛慎・朱眞、同音相 | げるが如し。伝統自づから明らかなり。ここに旧史を討探し、次第をなすこと左の如し。 それゆえまた、次のことを思う。時代が降り、族が「 | やぶれ」はしたものの、「 | | てつ」はなおも「綿 | めん | ちょ」を「 | たず」ねることでその原壌にいたることができる。例えば、瑪玕・靺鞨・渤海はともどもに同じ発音を受け継ぎ、珠申・粛慎・朱真はともどもに同音を伝えているようにである。伝統は自ずと明らかである。ここに旧史をくまなく探り調べ、順序を追って並べたところ以下のようになった。
ここでは、東族の諸部族の名にしばしば類似した名称が使われていることに着目して、その名称の根源が同一であることを説いている。

(注)「瓜瓞」~「綿緒」は、『詩経』の『大雅』にある表現「綿 | めん | めん | | てつ」(瓜(大瓜)・瓞(小瓜)が綿々とつながる様子で子孫の増え広がる様を表現したもの)
に由来し、子孫に繋がっている | つる | いとぐちをたどればその根元に到達できるということを述べたもの。

(解説)ここであげられている靺鞨・渤海・粛慎・朱真等は東北アジアの民族名であるが、それらの名称は東族における佳名に由来するという趣旨であろう。
いいかえればこれらの民族もかつては神祖の恩恵を受け、神祖を祖と仰いだに違いないという考えを述べたものである。

ただ、これらの名称がそれ自体何を意味するかが明かされておらず、不親切な感は否めないが、粛慎・朱真等については 、辰沄繾翅報(「東の大いなるもの」の国の皇)を縮約した形とみるのが妥当なようである。(詳しくは別述。)



第7章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
塢須弗耶馬駘記曰。其國所以未嘗隤頽者。職由潭探上古、明覯先代、審設神理、善繩風猷。一曰秋洲。讀做阿其氏末。蓋亦因于阿其比也。 | | | ほつの耶馬駘記に曰く。其の国未だ | かつ | くゎい | たいせざる所以 | ゆえんの者は。職として | ふかく上古を探り、明らかに先代を | 、審らかに神理を | つらね、善く | ふう | いう | ただすによる。一に秋洲と曰ふ。読んで | | | | | す。蓋し亦 | | | に因るなり。 | | | ほつの『耶馬駘記』にいう。其の国が未だ | かつ | かい | たいしないゆえんは、主として、 | ふかく上古を探り、明らかに先代を | 、審らかに神理を | つらね、善く | ふう | ゆう | ただすことによる。(その国は)あるいは秋洲ともいう。これを | | | | と読んでいる。思うにこれもまた | | | にちなんだもの(呼称)であろう。
耶馬駘記とは日本について記した書ということであろう。
その著者とされる塢須弗とは、恐らくは奈良時代末期に日本を訪れた渤海国使の烏須弗と同一人であろうか。
初来日時は入京を許されなかったことが続日本紀にみえ、以後その名は登場しないが、その後まもなく日本 と渤海とは極めて親密な国交を結び渤海からの訪問団も頻繁に到来することになるので、烏須弗が再来日を果たした可能性も考えられる。

ここでは、日本の国が持続する理由はいにしえのことを重んじるからであるといった趣旨のことを述べた上で、
日本の別名を「あきしま」(秋津島のことか)であるとし、その由来を | | | という語に求めている。

| | | とは第8章・第20章にも登場する重要な概念で、契丹古伝の難解な言葉の一つとされ るが、言葉の由来をそこに求めるということは、とりもなおさず、日本も本書に言う東族の一員であると塢須弗が考えていることを意味する。

なお、本章における言葉遣いに関係して、偽書説の根拠ともされる件があるが、別途検討する(一言だけ 言えば、古事記が「流布」した時期と渤海使が頻繁に来日した時期とが一致するのではないか考える必要があろう)。



第8章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
氐質都札曰。阿藝也央委也陽委也潢弭也伯弭也潘耶也淮委也。列名聯族。尋其所由。皆因於秦率旦阿祺毗矣。 | (つ | | | せ)に曰く。 | | | | | | | | | | | | | | や、名を列し族を | つらぬ。其の由る所を尋ぬるに、皆 | | | | | | | れり。 | (つ | | | せ)』に曰う。 | | | | | | | | | | | | | | は、名を列し、族を | つらねている。其の(名の)由来を尋ねるに、みな | | | | | | | ちなむものである。
ここでは、第6章と同様な発想で、類似する名と族名を並べ、それが秦率旦阿棋毗という概念にちなむものである とし、それらがみな東族に属するということを説いている。
(秦率旦阿棋毗については、第20章参照。)
なお、秦率旦は神祖の名「 | | | | | 」の 順瑳檀に由来すると浜名氏は解しているが、詳しくは別に記す(関連する言葉であることは確かであろう(15章も参照))。

氐質都札は書名であるがその意味は不明とされる。



第9章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
止浥婁異種。原稱羊鄂羅墜。本浥且之地也。神祖伐懲元兇。化育久之。 | ただ | あふ | ろうは異種。原称は | | | | 。もと | | の地なり。神祖伐って元兇を懲らし。化育之を久しうす。 | ただ | おう | ろうは異種である。原称は | | | | 。もと | | の地である。神祖は(浥婁を)伐って元兇を懲らし、久しくこれを化育した。
浥婁は、中国の史書に出るいわゆる○婁で、日本では通常ゆうろうと読むが、東北アジアのオロチョン族のことであることは一般に認められており、その名が本書の羊鄂羅墜と似ていることは興味深い。
なお、ヤオロチの名が何となくヤマタノオロチと似ていることから、本章の征伐と素○烏尊のヤマタノオロチ退治との関係が指摘されるが、意外と問題がある。



第10章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
命令作澡。然後容爲河洛。賜名閼覆祿。卽浥婁也。或曰閼覆祿禊誓之謂也。故至今爲成者。指其不渝於閼覆祿大水焉。 命じて澡を | さしめ。然る後容れて | | と為す。名を | | | と賜ふ。即ち | あふ | ろうなり。或は曰く。閼覆禄は禊誓を之れ謂ふなり。故に今に至るまで成を為す者。其の | はらざるを閼覆禄大水に | す。 (神祖は浥婁に)命じて澡を行わせ、その後で(受け)容れて | | と為した。(その際) | | | の名を与えた。即ち | おう | ろうである。或は曰う。閼覆禄は禊誓を意味する語である。故に今に至るまで、「成(盟約)」を為す者は、其の(約束)の変わらないことを示すために閼覆禄大水を指さす。
(注)河洛とは、第4章の、辰沄固朗・韃珂洛の「から」と同じで、東族の一族ということであろう。
澡は、第章の澡と同じで、沐浴の意。

本章は、前章と併せて、本来は東族に属しない浥婁を神祖が征伐したあと東族の一員に加えたことを述べる。 その際に神祖が「閼覆禄」という名を与えたことが | おう | ろうの名の由来であるという説話風の内容が続く。
それに従えば、もともと閼覆禄という何らかの東族古語があり、それが浥婁の名の期限にもなったということであるが、 その古語に関して、それは禊誓を意味する語であるという説が本章の最後で示されている。(詳細は別に述べる)

なお、閼覆禄大水とは鴨緑江のこととされる。浥婁はこの河の北方にいたと考えられる。浥婁に禊誓を行わせたのがこの河ということかもしれない。



第11章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
汗美須銍曰。神祖都于鞅綏韃。曰畢識耶。神京也。敎漾緻遣翅雲兢阿解治焉。 | | | | に曰く。神祖、 | | | に都す。 | | | と曰ふ。神京なり。 | | | | | | | | をして治めしむ。 | | | | 』に曰う。神祖は、 | | | に都した。 | | | と曰う。神京である。 | | | | | | | | に治めさせた。
汗美須銍は書名である。本章から第15章まではこの書の引用からなっており、神祖が複数個設置した都について、 その名称や各京の統治担当者名などが語られる。
○○耶の「耶」は「 | みやこ」または「 | みや」の意味と解される。

なお、これらの章(特に本章と第15章)には若干の問題があるが、この点について詳しくは別に述べる。



第12章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
又敎耑礫濆兮阿解。居戞牟駕。曰高虛耶。是爲仲京。 また | | | | | | をして | | | に居らしむ。 | | | と曰ふ。是を仲京とす。 また | | | | | | を、 | | | に居らせた。 | | | という。これが仲京である。



第13章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
敎曷旦鸛濟扈枚。居覺穀啄剌。曰節覇耶。是爲海京。 | | | | | | をして | | | | に居らしむ。 | | | と曰ふ。是を海京と為す。 | | | | | | を、 | | | | に居らせた。 | | | と曰う。これが海京である。
本章の京の名が | | | であるが、これを「『 | しお』の『みや(こ)』」と解すれば、 それが「海京」であるという説明とよく符合する。
このことから、第11~15章における「これが○京である」というのはその直前に記された「○○耶」という言葉の意味をとって意訳したものである ことが推定される。

なお、浜名氏は曷旦鸛済扈枚をアタカシツヒメ(ニニギの尊の后)と同一人物としてこの海京が鹿児島あたりにあったとするが、 誤りであろう。ただ、この人名を含め、日本神話的な響きがすることは注目される。



第14章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
敎尉颯潑美扈枚。居撫期範紀。曰濆洌耶。齊京也。 | | | | | | をして | | | | に居らしむ。 | | | と曰ふ。齊京なり。 | | | | | | | | | | に居らせた。 | | | と曰う。斉京である。
| | | 」の「 | | 」は和語「 | ひら」と関係がありそうである。
なぜなら、そう解すると濆洌耶は「 | ひらたい京、 | たいらかな京」という意味になるが、斉京の斉の字も「土地が均斉である」という意味に解せるからである。

こういった対応関係は、本章や前章では比較的明快だが、第11章・12章ではやや不分明である。(浜名氏は11章の | | | ひじりであるなどと説明を試みている。)



第15章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
敎耆麟馭叡阿解治巫軻牟。曰芝辣漫耶。神祖初降于此故稱曰秦率母理之京。 | | | | | | をして | | | に治せしむ。 | | | | と曰ふ。神祖、初め此に降る。故に称して | | | | 之京と曰ふ。 | | | | | | | | | で治めさせた。 | | | | と曰う。神祖は初め此に降った。故に称して | | | | 之京と曰う。
阿解又宮於然矩丹而居。曰叙圖耶。是爲離京。阿解生而異相。頭有刄角。好捉鬼[鬼+居]。乃頒蘇命遮厲立桿禁呪二十四般之法。于今有驗也。 阿解又 | | | に宮して居る。 | | | と曰ふ。是を離京と為す。阿解、生まれながらにして異相。頭に刄角有り。好んで鬼[鬼+居]を捉ふ。乃ち蘇命・遮厲・立桿・禁呪二十四般の法を | わかつ。今に于いて | しるし有り。 阿解はまた | | | に宮して居た。 | | | と曰う。これは離京である。阿解は生まれながらにして異相で、頭に刄角が有り、好んで鬼[鬼+居]を捉えた。そして蘇命・遮厲・立桿・禁呪二十四種の法を頒布した。今においても効験が有る。
※「鬼[鬼+居]」について。 2文字目の「[鬼+居]」は、「䰨(魅の異体字)」の誤写か。とすると、鬼[鬼+居]⇒鬼䰨=鬼魅(鬼とばけもの、妖怪変化)。


(解説)ここでは、 | | | | | | という人物が治めていた京が二ヶ所あることが記されている。
この | | | | | | という人物は、この11章から15章(『汗美須銍』からの引用部分)における登場人物の中では重要人物である (この後の章でもその名が複数回登場し、「神子」という肩書きが付く場合もある)。
また、11章から15章の中で、大半の人物には単に「居らせた」という表現が使われているのに 対し、 | | | | | | と11章の人物には「治めさせた」「宮して」といった表現が使われており、特別な扱いであることが察せられる。

この | | | | | | は、神祖の子であると解するのが自然である(異説がないわけではないが、私の研究でもその結論は維持されている。)

| | | | | | が治める二つめの京である | | | は、これを「『 | そと』の『みや(こ)』」と解すると、それが「離京」であるという説明と よく符合する。

また、一つ目の京である | | | | 之京については、日本書紀の一書で素尊が降臨した場所とされるソシモリと類似していることが注目される。 本伝では、京の名の由来が神祖が初めて降臨した場所であることによると明記されているから、 | | は神祖の名 | | | | | に由来することになる。 ソシモリは、ソシ(牛頭)+モリ(山)と解されることが多いが、本伝からすればそれは誤りということになりそうである。
(スサナミコの2番目の音「サ」は、「シ」と発音されることも多いらしいと考えられるので、それを考慮すればスサ≒ソシといえる。)

また、 | | | | | | に角のようなものがあり、不思議な術を使う存在とされているのは特異な記述であり注目されるが、 詳細は別に譲る。

檀君伝承との関連について

この11章から15章(『汗美須銍』からの引用部分)については、しばしば檀君伝承との関連性が指摘される。
まず、11章の | | | は、檀君が都を開いたアシタ(その場所は現在の平壌であるとされる)と同一であると指摘される。 また、15章の | | | とは、不咸山ともよばれる長白山(白頭山)(檀君の父の降臨地で檀君の出生地とされる)のことであり、
さらに、15章の | | | は檀君が中国の周王朝成立のころ遷都した先である「蔵唐京」であるという。
これについては、前にも少し触れた11章から15章における作為について説明しないと理解しにくいが、これは 長くなるので別に述べることにして、その結論に基づいて検討すると、もともと檀君伝承より当古伝の内容の方が 古い形を伝えている面があるのであり※、時代が下って各民族が独自の伝説を作り上げた際に、内容がアレンジされて、 アシタ、フカムなどについて各民族独自の比定地が設定されたというように考えたほうがよいということになる。
だから、アシタ、フカムなどの位置を檀君伝承のそれと同様に考える必然性はないことになる。 (この点、浜名氏、原田氏は地名の比定については檀君伝承のそれとほぼ同様に考えるようである。浜名氏は一方で、檀君自体は本章の登場人物ではなく次章の登場人物に該当するものの 、本章の内容の片鱗が檀君伝承に入りこんだとする。)

※もし檀君伝承に整合させて当古伝を作ったのなら、アシタの京で神祖本人が治めるのはおかしいはずである。



第16章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
西征頌疏曰。神祖將征于西。乃敎云辰阿餼城于介盟奈敦。敎察賀阿餼城于晏泗奈敦。敎悠麒阿餼城于葛齊汭沫。於是濟怒洌央太。至于斐伊岣倭之岡而都焉。蓋怒洌央太西海之名也。斐伊岣倭西陸塞日之處也。 西 | せい | せい | しょう | に曰く。神祖、将に西に征せんとす。乃ち | | | | をして | | | | | きづかしめ、 | | | | をして | | | | に城かしめ、 | | | | をして | | | | に城かしむ。 | ここに於て | | | | | わたり、 | | | | 之岡に至り、而して | みやこす。蓋し、怒洌央太は西海の名なり。斐伊岣倭は西陸 | さい | じつ | ところなり。 西 | せい | せい | しょう | 』に曰う。神祖はまさに西へ征しようとしていた。そこで | | | | に(命じて) | | | | に城塞都市を建設させ、 | | | | には | | | | に、 | | | | には | | | | に城塞都市を建設させた。そして、 | | | | を渡り、 | | | | の岡に至り、そして都した。思うに、怒洌央太は西海の名である。斐伊岣倭は、西陸 | さい | じつの処である。
これは、神祖が西方への征服を行う様子を描写したものである。
征服後、その地に都を置いたということになるが、これが次章の幹浸遏のことであり、今の中国の中原と解するのが自然である。
すると、怒洌央太は、渤海のことと解される。 また、本章の3つの城は、今の遼寧省またはそれに近接した地域のどこかに設置されたと考えられる。
浜名氏の解釈では、介盟奈敦が旅順方面、晏泗奈敦が営口、葛齊汭沫が河北省の秦皇島としている。 ただ、1)これは征服のための築城であること、2)医無閭山発祥の辰沄氏は、既にその拠点を医無閭からほど遠くない場所に置いているはずで、それを 営口周辺と考える、とすれば、本章の3城は遼東半島を中心として設置されたようにも思える(詳しくは別に述べる)。


斐伊岣倭の説明として、西陸塞日之処であるとあるが、塞日とは西の要塞の向こうに太陽が沈む所といった意味であろう( 杜甫の詩に、水静楼陰直、山昏塞日斜とある)。要するに、「日の出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に~」の「日の没する処(=中国)」と同様な発想と考えられる。



第17章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
秘府錄曰。神祖拓地于幹浸遏。區爲五原。伯屹紳濃和氣治於馬姑岣焉。是爲西原也。 泱汰辰戞和氣治於羊姑岣焉。是爲東原也。納兢禺俊戸栂治於伊樂淇焉。是爲中原也。 湮噉太墜和氣治於柵房熹焉。是爲北原也。 沄冉瀰墜和氣治於柟崤藐焉。是爲南原也。 于是御旦賅安閔調波那阿沄。敎矩乃古諸勿有畿覲怙曾矣。 秘府録に曰く。神祖、地を | | | | ひらく。区して五原となす。 | | | | | | | | | に治す。是を西原と為す。 | | | | | | | | | に治す。是を東原と為す。 | | | | | | | | | に治す。是を中原と為す。 | | | | | | | | | に治す。是を北原と為す。 | | | | | | | | | に治す。是を南原と為す。 | ここ | いて、 | | | | を御し、 | | | | を調し、 | | | | をして、畿覲怙曾有ること | なからしむ。 『秘府録』に曰く。神祖は、地を | | | に拓き、分けて五原とした。 | | | | | | は、 | | | に治した。これを西原という。 | | | | | | は、 | | | に治した。これを東原という。 | | | | | | は、 | | | に治した。これを中原という。 | | | | | | は、 | | | に治した。これを北原という。 | | | | | | は、 | | | に治した。これを南原という。 | ここ | いて、 | | | | を御し、 | | | | を調し、 | | | | に命じて、畿覲怙曾の有ることがないようにさせた。
神祖が中国本土を征服し終わった後、そこを五つのエリアに分けて統治した様子が記されている。
各エリアの統治担当者名は、極めて日本神話的な響きがする。

「是において」以降の一文は、難解とされ、浜名氏も解釈を放棄しているが、神祖が皇宮に坐して統治する様子を 東族語を用いてしるしたものと私は考えている。(詳細は別記。)



第18章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
初五原有先住之種。沒皮龍革牧於北原。 魚目姑腹穴於西原。熊耳黃眉棲於中原。苗羅孟馮田於南原。 莬首狼裾舟於海原。咸善服順。 初め五原に先住之種あり。沒皮龍革、北原に牧し。 魚目姑腹、西原に穴し。熊耳黄眉、中原に棲み。苗羅孟馮、南原に田し。 莬首狼裾、海原に舟す。みな善く服順す。 初め五原に先住の種族があった。沒皮・龍革は、北原に牧し、魚目・姑腹は、西原に穴し、熊耳・黄眉は、中原に棲み、苗羅・孟馮は、南原に田し、莬首・狼裾は、海原に舟していた。みな善く服順した。
但南原箔箘籍兇狠不格。神祖伐放之海。 疏曰。箔箘籍三邦之名。鳥人楛盟舒之族也。後歷海踏灘波據蔚都猾巨鍾遂入辰藩者。其遺孽云。 但し南原の箔箘籍、兇狠にして | いたらず。神祖 | って | これを海に放つ。 | に曰く。箔箘籍は三邦の名、鳥人 | | | の族なり。後に海を | | | を踏み | | に拠り | | | みだし遂に辰藩に入る者は、其の | | げつと云ふ。 但し、南原の箔箘籍は、 | きょう | がんにして | いたらず、神祖はこれを征伐して海に放った。 | (=注釈書)が曰うには、「箔箘籍は三邦の名、鳥人 | | | の族である。後に海を | | | を踏み | | に拠り | | | みだし遂に辰藩に入った者は、其の | | げつである」と。
神祖が五原を開拓する以前から棲んでいた先住民族について述べている。

浜名氏は、本章の言葉遣いが前章と異なる等の理由で、本章は悪意有る者による捏造とするが、一方で綿密な解読を試みてもいる。 私も、以前は捏造の可能性があると考えていたが、おそらく | (=注釈)の引用部分に若干の改変がある程度で、安易にカットすべき内容ではないと 考えている。(ただ、そう考えるに至った理由を記すのは相当の長文が必要となるので、ここでは省略し、解釈についても同様とし、詳細は別記とする。)



第19章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
神祖親臨八百八十載。登珍芳漾匾墜球淄蓋麰之峰。祝曰。 神祖親臨八百八十載にして、 | | | | | | | | | 之峰に登り、祝して曰く。 神祖親臨八百八十年にして、(神祖は) | | | | | | | | | の峰に登り、祝して曰った。
辰沄龢提秩。宸檀珂枳。膠牟頡銍岬袁高密、德溶晏髭戞賁莎戞。 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 。」
終詣日祖之處。永止非文紀旦賅墜阿旻潑例矣。 | つひに日祖之 | ところ | いたり、永く非文 | | | | | | | | | | とどまる。 (神祖は) | つひに日祖の | ところ | いたり、永く非文 | | | | | | | | | | とどまった。
後經十有六連。有璫兢伊尼赫琿。承嗣大統。祖風重興。河洛復盛焉。 後、十有六連を経て、 | | | |   | | 有り。 | けて大統を | ぎ。 | | ふう重ねて興る。 | | | | さかんなり。 その後、十六連※を経て、 | | | |   | | が有って、大統を | | ぎ、 | | ふうは重ねて興った。 | | | | さかんになった。
疏曰。宸檀珂枳猶言稻華神洲也。戞日也。餘義今不可攷。 | に曰く。 | | | | | なほ稲華神洲と言ふがごとし。 | は日なり。餘義今 | かんが | からず。 | (注釈)に曰う。 | | | | はあたかも稲華神洲と言うような意味である。 | は日である。その余の意味は今 | かんがえることができない。
本章は、神祖が日祖の処へ帰還する様子を述べ、最後に、その子孫である璫兢伊尼赫琿について述べている。

珍芳漾匾墜球淄蓋麰の峰というのは、どこかニニギの尊の降臨地である日向の | の高千穂のクシフル | たけの名を連想させる。ただし、本章は降臨ではなくて晩年における登頂である点が異なる。
非文 | | | | | | | | | も、どこか | たか | まの | はらを連想させる名称である。
日祖の処というのは、第2章にいう日祖の居場所である辰云珥素佐煩奈のことであろうから、神祖が天界に帰ったという趣旨のことを述べているものと思われる。
神祖が祝して唱えた文言は、意味不明であるが、本章末尾の説明から、「稲華神洲」を讃えたものであることが想像できる。要するに神祖の統治する国土を讃えたものであろう。
ちなみに、 | いねを古語で | しねということがあり、ここでいう宸(檀)との関係が考えられる。
河洛は、4章・10章参照。ここでは東族全体を指すか。
神祖の子孫である璫兢伊尼赫琿については難解であるが、第17~19章は『秘府録』の引用であり、17・18章は五原の支配について述べていることからすれば璫兢伊尼赫琿も五原に君臨した存在ということになろう。

(注)非文 | は、斐を二字に誤き誤ったものであろうと浜名氏は解しており、ここではそれに従った。
※「十有六連(十六連)」の「連」は「運」の誤記と浜名氏は解釈している。そして運=干支一運=六十年と解すると、十六運=九百六十年となる。



第20章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
神統志曰。神統逖諸莫不恢處。取義乎阿祺毗以爲族稱者。 曰阿靳曰泱委曰淮委曰潢耳曰潘耶也。 取諸暘靈毗者。姚也陶也句黎也。 陶有皥陶唐三皐洛、黎有八養洛矣。 取諸寧祺毗者。和義也姒嬀也猶隗也。 取諸太祺毗者、嶽也。 則號五族渾瀰爲句婁。初有四嶽、後爲九伯。蓋其音相同也。姜濮高畎諸委屬焉。 以上通稱諸夷因神之伊尼也。廟㫋爲汶率。 神統志に曰く。神統 | てき | しょとして | おほいならざる | ところなし。義を | | | に取って以て族称と為す者は、 曰く | | 、曰く | | 、曰く | | 、曰く | | 、曰く | | なり。 | これ | | | に取る者は、 | えうなり、 | えうなり、 | | なり。 | えう | かう | えう・唐の三 | | あり。黎に八 | | あり。 | これ | | | に取る者は、和義なり、 | | なり、猶隗なり。 | これ | | | に取る者は、嶽なり。 | すなはち五族の渾瀰を号して | | と為す。初め四嶽あり。後九伯と為る。蓋し其の音 | あひ同じきなり。姜・濮・高・畎の諸委 | これに属す。 以上通して | これを夷と称するは神の伊尼に | る也。 | これを廟して汶率と為す。 『神統志』に曰う。神統は「 | てき | しょとして(遠方へ伸び)」、 | おおいに広がらない処はなかった。 | | | を意味する語をもって族称とする者は、 | | と曰い、あるいはまた | | と曰い、 | | と曰い、 | | と曰い、 | | と曰うのである。 | | | を意味する語を族称とする者は、 | ようであり、 | ようであり、 | | である。 | よう | こう | よう・唐の三 | | がある。(句) | | には八 | | がある。 | | | を意味する語を族称とする者は、和義であり、 | | であり、猶隗である。 | | | を意味する語を族称とする者は、嶽である。 | すなわち、五族の渾瀰を | | と号している。初め四嶽があり、後に九伯となった。思うにそれらの音は | あい同じなのであろう。姜・濮・高・畎の諸委が | これに属する。 以上を通して | これを「夷」と称するのは神の「伊尼」に | ちなむのである。 | これ | びょうして汶率という。
ここでは東族の各部族が | | | | | | | | | | | | という概念に基づいて族名を名づけていることが示され、かつ多数の族名が示されている。

最初に登場する「 | | 」は、第7章の阿其・第8章の阿棋と同じであると見られるから、7章の塢須弗に従えば日本は阿棋族の住む国ということになる。

ただ、族名の中には何を指すのか分かり難いものも多いので、詳細は別に検討する。

ここでは、最後のほうに出てくる「夷」「伊尼」について触れておきたい。
まず、本章の部族は「夷」と総称されることが述べられているが、常識ではこれは中国人が東方の異民族を蔑んでいう語であるとされる。
ただ、本章からすれば、「夷」という言葉は、漢民族である西族(次章参照)が発明した言葉ではなく、もともと東族が自ら用いていた言葉であることばであるが、 それを西族は蔑称として用いたということになる。
また、東族は中国の広い範囲に分布していたから、いわゆる「東夷」以外にも「夷」は存在するということになる。
さらに、「夷」の語源が「伊尼」という東族語であると述べており、その意味は明示されていないが、神聖な言葉であることは窺える。
伊尼は、「いに」「いち」等と読める(浜名氏は「いち」と読んでいる)。
「夷」は、もともと「鉄」に近い音だったともされるから、昔は「ち」とか「に」のような音だったのかもしれず、それが伊尼の尼の音を表していたのかもしれない。
さらに、本章に「諸委」という言葉があるが、これは「諸夷」と同義であろうから、「夷」のことを「委」とも書いたことが窺えるが、詳細はここでは略す。
ところで、伊尼を浜名氏は「 | | 」((神霊の)威光、神聖さの意味)に解する。判断材料が乏しいのが難点だが、必ずしも的外れな見解とはいえないと考えている(詳細は別に述べる)。

次に、これら民族名の由来となっている○○毗とは、何か神聖な概念ではあろうが、何を意味するかが問題となる。 第8章では、 | | | | | | という語が使われており、それが神祖の名(すさなみこ)と似ていることから、 神祖と関連づけて浜名氏は考えているようである(毗は「 | 」の意味とする)。これも的外れとはいえないが、この概念における4区分が何を意味するかという点と併せて 別途検討する。



第21章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
費彌國氏洲鑑賛曰。海漠象變而地縮于西。乃后稜為海而天遠於東矣。 又經洚火災、西族漸入。神牛首者、鬼蛇身者。詐吾神子號。造犧農黄昊陶虞。濫命蕃祀、自謂予聖。 寧識堯與舜者東族翅報也。渾族有君、肇自夏禹。雖然。禹沄也、夏繾也。 | | | 氏洲鑑の賛に曰く。海漠の | かたち変じて、地 西に縮まり。 | | |  海と | って、天 東に遠し。 又、洚火の災を経て、西族漸入し。牛首を神とする者、蛇身を鬼とする者。 | が神子の号を | いつはり。 | | のう | くゎう | かう | たう | を造り。 | みだり | ばん | に命じ、自ら予を聖なりと | ふ。 | いづくんぞ | らん、堯と舜とは東族の | | なり。 | こん | ぞくに君あるは、 | | より | はじむ。 | しかりと | いへども。禹は | なり、夏は | なり。 | | | 氏洲鑑』の賛に曰う。海漠の | かたちが変化して、大地は西に縮小し。 | | | は海と | って、東天は東に遠ざかった。 また、「 | こう | の災」が過ぎ去った後、「西族」が漸入し。牛首を神とする者、蛇身を鬼とする者が、 | われらの神子の号を詐称し、 | | ふつ | )・ | のう | しん | のう)・ | こう(黄帝)・ | こう(少昊)・ | とう | ぎょう)・ | | しゅん)を造りだして。 | みだりに | ばん | にまつって、自ら「予は神聖である」と | っている。 どうして | っているだろうか(=彼らは知らないのだ)、堯と舜とは東族の | | (皇)である。 | こん | ぞく(混血した西族) が君主を戴いたのは、 | | | はじまるのである。そうではあるけれども、禹は | であり、夏は | である。
(注)「 | こう | の災」=洪水と火の災い。

(解説)
本章では、天変地異の発生を語る短い神話風の記述の後に、「西族(漢民族)」が東族の住む地に到来する様子が記されている。

まず、冒頭の天変地異の部分であるが、浜名氏は「海漠」とは海が砂漠に転じる異変をいうとするが解せない話で、「広がる海原」という 程度の意味であろう(漠は砂漠とは限らない。そもそもさんずいの字である。)そうすると、大地が「西に縮ま」ったというのは、海岸線が西に移動したこと、つまり 大陸の東部沿岸が海没したことであり、「 | | | 」の具体的な場所は不明だが、この沈没した地域の、とある沿岸もしくは島をさすのであろう。

次に、西族の進入についてであるが、ここでは、漢民族は西からやってきて東族のいる地に入りこんだということを述べている。これが本書の特色の一つである。
ここで西族が漢民族を指すことは、 | | ふつ | )・ | のう | しん | のう)・ | こう(黄帝)・ | こう(少昊)・ | とう | ぎょう)・ | | しゅん)という、史記の三皇五帝の登場人物を 挙げていること等から明白である。これらは、本来は東族の君王であるのを西族がアレンジして自分達の歴史に仕立て上げたということを述べているわけである。
そして最後の方にでてくる「東族」とは、神祖の子孫である各族(しうから)を指すことも明白であろう。

西族の進入時期であるが、最後の方の記述から夏王朝の禹王以前であることは明白だが、具体的には示されていない。(漸入とあるので、時間をかけて少しずつ移住してきたのかもしれない。)

夏王朝のときに「 | こん | ぞくが君主を戴いた」というのは、「混血した西族自体から君主を出した(君主が混血)」という意味にもとれるし、 「君主は東族だが、このころ西族が東族に侵入したため西族がこの五原の地で東族と入り混じって君主の支配に属したのはこの時から」という意味にもとれる。 ただ、前者の意味だとしても、夏王朝の次の殷王朝はれっきとした東族の王朝であったということになる(後述)。

「牛首を神とする者、蛇身を鬼とする者」の、「鬼とする」について、「特別な存在として崇拝する」と解するか、悪い鬼の意味に解するかも問題である。 浜名氏は、「鬼として祀る」等と書いているので、前者と解しているようである。ただ、鬼という字は、確かに良い意味で使うこともあるが、それは祖先等を指す場合であって、 漢字自体の起源論としてはともかく、ここでは、通常の漢文の文体で書かれている文章の読解をしているのだから、第15章の「鬼䰨」と同様に悪い意味に解するべきであろう。

ところで、費弥国氏洲鑑の賛とは、一応、「『費弥国氏』の『洲(領域)』について記した『鑑(歴史書)』」に収録されている「史賛※」 という意味に解されるが、費弥国氏洲鑑とは、少し妙な感じの書名ではある。当古伝の残り大半が費弥国氏洲鑑の引用からなるので、書名について少し検討してみたい。
浜名氏は、「洲」とは東族語を漢字で宛て字した物であろうという。私が思うに、○○氏洲というような全体の言い回しも東族語の類似表現を意識したものかもしれない。 費弥国氏は、常識的には費弥国という国の王家という意味になるが、「国」も「 | 」を意識したものである可能性も高いから、「国」を「く」とか「こ」と呼んでもあながち的外れではない。 そこで、ここでは鹿島曻氏に従って「国」を「こ」と読んでみた。

※史賛とは、史書の巻末で、史実を引用して史上の人物を讃えたり論評するものをいう。当古伝引用の賛は相当長文であるから、各巻巻末の賛から引用しているということになろう。 ただし論評部分でなく、史実の要約部分を中心に引用したものか、もしくは、総論的な形で一巻の書としてまとめたものがあって本古伝の著者はそこから引用しているのかもしれない。



第22章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
及昌發帥羗蠻而出。以賂猾夏。戈以繼之。遂致以臣弑君。且施以咋人之刑。 昌発、羗蛮を | ひきゐて出づるに及び。賂を以て | | みだし。 | ほこを以て | これに継ぎ。遂に臣を以って君を | しいするを致し。 | | ほどこすに | さく | じんの刑を以てす。 昌(周の文王)・発(武王)が羗蛮を | ひきいて出陣するにあたり、賄賂を以て | (=繾(国)。殷朝のこと)を | みだし、賄賂のつぎには | ほこ(武力)を使い、遂に臣下が君主を | しいするという事態を起こし、 | つ食人の刑を実施した。
本章から、いわゆる殷周革命についての記述が始まる。
本章では、周の文王とその子(武王)が殷朝打倒を目指し活動を始める様子が描かれている。

殷朝を滅ぼした周とは、実は西族の王朝であり、殷は東族の王朝である。 この王朝交代が、大きな文化的変動をもたらしたこと、周が西方に起源を有することは、中国でも認められつつある。
羗蛮とは、チベット系の羌族で、周の勝利に大いに貢献した部族である。



第23章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
伯唱而不成。和征而不克。陽勇于津防、而易賣節畔之。周師次牧焉。淮徐方力于郊戰、而姜從内火之。商祀終亡矣。潢浮海、潘北退、宛南辟。嘻朱申之宗、毒賄倒兵、東委盡頽。 伯、 | となへて成らず。和、征して | たず。陽、津防に勇なりしも、易、節を売って | これ | そむく。周師、牧に次す。淮徐、 | ともに郊戦に | つとむるも。姜、内より | これ | き。商祀、 | つひに亡ぶ。潢、海に浮び、潘、北に退き、宛、南に | く。嘻、 | ああ  | しゅ | しんの宗、賄に毒せられ、兵を | さかさまにして、東委 | ことごと | すたる。 伯族は、(大義を) | となえ(て周を止めようとし)たが成功せず、和族は、征するも | たなかった。陽族は、津(孟津)の攻防に勇戦したが、この(攻防の)際、易族は、金財と引き換えに(殷朝への)忠節を捨て(て敵に内通し)た。周の師団は、牧(牧野)に布陣した。淮族・徐族は、ともに(牧野の)郊戦に | つとめたが、この際、姜族は、内より火を放って焼毀し、商(殷朝)の祀は | ついに亡んだ。潢族は、海に浮び、潘族は、北に退き、宛族は、南に退避した。嘻、 | ああ  | しゅ | しんの宗家が、賄賂に毒せられ、(戦意なき兵が)兵器を | さかさまにして(敵に道を開き)、その挙句、東委が | ことごと | すたれてしまうとは。
本章では、東族の各部族が、殷朝を助けようと奮闘するが願いかなわず、牧野の決戦で敗北し、東夷が衰退する様子が語られている。

ここで名の挙げられた部族が具体的にどの民族に該当するかは興味あるところだが、詳細は別に譲る。
ただ、族名が列挙される中で、易族と姜族(後者は、前章にも登場したチベット系の羌族)が敵となったとされている点に注意を要する。これらは、 本来東族に属する部族であるのに、裏切ったということになる。

末尾近く、「嘻、 | ああ 」以下では、この経緯を改めて振り返り慨嘆している。
| しゅ | しんの宗(家)」が、文脈上殷朝を指すことは明らかで、 | しゅ | しんの宗とは東族の宗家という意味であろう。
浜名氏は、 | しゅ | しんの宗とは粛慎族の長を意味し、裏切った部族の一例と解釈するようだが、文脈上明らかにおかしい解釈である。
宗家であるからこそ、多くの部族が救援に奔走したのであり、この後の章でもいくつかの部族は殷朝の王族のために活動することになる。
これは、殷朝が(混血族)ではなく東族の王朝であることを意味する。これについては、その言語などを理由とする批判も予想されるが、詳細は別に譲る。



第24章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
惟武伯與智淮殿而止焉。欲力保晋氳之原。智淮奪子叔釐賖於虜。城于葛零基以舍焉。國號辰沄殷。時人又稱智淮氏燕、以別邵燕。姫發降志、賄以箕封。殷叔郤之。韓燕來攻。乃徙翳父婁都焉。傳云。翳父婁者奚契旦爰麻岣秘處也。又云。奚契旦爰神子耆麟馭叡別號也。 | ただ、武伯と智淮と殿して | とどまる。 | つとめて | (しん | うん) | げんを保たんと欲す。智淮、 | | しゅく | | しょ | とりこより奪ひ、 | | | | きづき以て | く。国を | | | いんと号す。時人又智淮氏 | えんと称し、以て邵燕に | わかつ。 | 發、志を降し、賄するに | 封を以てす。 | いん | しゅく | これ | しりぞく。韓燕来り攻む。 | すなはち翳父婁に | うつって | みやこす。伝に云ふ。翳父婁は | | | | | | | | ところなりと。又云ふ。 | | | | は神子 | | | | の別号なりと。 | ただ、武伯と智淮とは殿 | しんがりとしてなお | とどまっており、 | つとめて | (しん | うん) | げんを保持しようと欲した。智淮は捕虜となっていた | | しゅく | | しょを奪還し、 | | | に城塞都市を建設して(そこに子叔釐賖を) | いた。その国号を「 | | | いん」といった。時の人はまた「智淮氏 | えん」とも称し、それにより邵燕と区別した。 | 発(武王)は、(辰沄殷打倒の)志を捨て、子叔釐賖を封じて | の支配者の地位を与え(るという懐柔策に出)た。 | いん | しゅくは、 | これ | しりぞけた。(その後)韓と燕が攻めて来たので、(辰沄殷は)翳父婁に | うつって | みやこした。伝に云う。翳父婁は、 | | | | | | | | ところであると。また云う。 | | | | は、神子 | | | | の別号であると。
本章では、殷の紂王の死亡後も、伯族と淮族が抵抗活動を続け、「 | | | いん」という国を建てる様子が記されている。


(注) | (しん | うん) | げん:昔の縉雲氏の土地の意味らしいが、縉雲は | | に通じうる。ここでは華北平原の黄河以北を中心とした地域か。
| | | :東族語による地名表記。交黎(今の昌黎)か。
邵燕:いわゆる燕のことで、周建国に功績のあった召公(の親族)が建てた国。  韓:周の武王が親族を封じた国。翳父婁:5章の毉父と同じ。遼西地方の医無閭山。

(解説)ここで、伯族と淮族に奉じられた | | しゅく | | しょは、いわゆる箕子で、伝説的人物とも言われるが、本古伝では実在の人物であるとされる。 子は殷王家の姓、叔は紂王の叔父の意だが、あるいは従兄弟か何かかもしれない。 | | しょは名であるが本伝独自のものである。
伯族と淮族は、第8章に | | | | として登場する(20章には淮委と伯)。武伯と智淮という呼び名は他に見えないが、当時そのように呼ばれたものであろうか。 武とか智というのも、本来は東族語の美称に宛字をしたものなのかもしれない。
この淮・伯は、いわゆる朝鮮民族を構成するとされる | (わい | ばく)を連想させるが、やや趣を異にする点があるのに注意する必要がある。
濊族は、朝鮮半島の東部(日本海側)からその北方にかけて分布する民族で、今の朝鮮民族の主流であるとも見られるが、北方系の文化をもつ。
しかし本伝の淮族は、中国の太平洋に面した(倭人のルーツの1つともされる)江南地方の淮徐と呼ばれた地域とも繋がりがある種族らしく、31章には別の一族がこの地方から遼寧省に到来している。
一方、本伝の伯は、狛とほぼ同じであると一応考えられる。ただ、高句麗王家・百済王家は狛族とされるが、王家と一般民は言葉が異なると記録されていたり、また、これらの王家は後の新羅による半島統一によって没落したことなどから、狛族は現在の朝鮮民族の主流から外れていることに注意すべきである。

何よりもまず、伯族と淮族が熱心に奉じた殷が、かなり南方系の要素をもつ王朝であったことに留意すべきで、例えば白川静氏は殷は南方系沿海民族であり、日本の古代文化とも共通点が多いとする。 と述べている。
ところで、殷は夷を意味し、周朝の側からの蔑んだ呼び方ともされるが、夷自体が、東族語に由来する(20章の解説参照)のと同様、殷も単なる蔑称ではないといえるから、「辰沄殷」という国名も不自然ではない。

なお、浜名氏の見解では、殷王家は伯族で、辰沄殷が智淮氏燕と呼ばれたのは外観上は淮族が燕の領域内に樹立した国だからという。ただ、浜名氏の説明によればその近辺は伯族が強い勢力を保持している領域であるから、「武伯氏燕」が出来てしかるべきではないか、と考えるとやや納得できない面もある。 もしかすると、淮族の領域内に辰沄殷が樹立されたのは殷王家に淮族の血が濃かったためで、それゆえに智淮氏燕とも呼ばれたのではなかろうか。(31章で徐族が設立した国(徐珂殷)に「殷」の字が登場するのも、そのことを示唆していないだろうか。)



第25章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
當武伯山軍糾合于冀跳破於南。偶寧羲騅、以其舟師及弩旅會于渝濱。高令擧國前走。歌曰。 武伯山軍、 | に糾合し、南に跳破するに当たって。 | たまた | | | 、其の舟師及び弩旅を以て | | ひん | くゎいす。高令、国を挙げて前走し、歌って曰く。 武伯山軍が | (の地)に糾合し、南に跳破しようとする時に、 | たまた | | | が、其の舟師(水軍)及び弩旅(弓矢隊)を | | ひんに集結させた。高令は、国を挙げて前走し、歌って曰うには、
鄲納番達謨孟。珂讃唫隕銍孟。伊朔率秦牟黔突。壓娜喃旺嗚孟。 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 。」
ここでは、武伯の軍が周の勢力を阻むため南進しようとするときに、寧羲氏の勢力が渤海に到着したこと、及び、勢いづいた高令の一族が | さきがけとして行進し、歌をうたう 様子が描かれている。

(注)
| | ひん=渝水が渤海に注ぐ辺り、秦皇島付近とされる。
| =冀州。浜名氏は今の山西省であるとする。これは、周王朝の時代に冀州が(現在と異なり)山西省を中心とする地域を指していたことを考慮したものであろう。 しかし、ここでは、それ以前の冀州、すなわち「書経」の「禹貢」にみえる冀州と解すべきで、むしろ今の河北省に比重があったものと考えられる。 武伯軍の出発地と寧羲氏の到着地はそれほど離れていないと考えられるから、そう解したほうが自然である。武伯軍は今の華北平野の北部(または北西部)の山麓にいたと考えられる。

(解説) 武伯軍の行動は前章同様 | (しん | うん) | げんを守るための作戦であろう。
そこに新に現れた | | | は、第5章に現れた | | 氏の人物で名を騅というのであろう。
従って、そのルーツは東表にあるのではあるが、当時五原のどこかに勢力を有していたと考えられる(5章でいう「五原諸族の間で著名」とは、寧羲氏も五原諸族の一員ということを前提とする)。
ただ、浜名氏はそう解していない。寧羲騅とは日本神話の天孫・ | | | ぎの | みことであって、東表の地から遠征してきたのであるという。この点詳しくは別に検討する。

高令というのは、高夷と呼ばれた部族のことで、当時は渝浜付近に居たと考えられる(浜名氏の説と若干異なるが、大筋では同じである)。 東族の集結に喜び勇んで、 | さきがけを買って出たものであろう。



第26章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
武伯追獲夏莫且。寧羲騅斬之以徇。諸族喜躍響應。傳謂兪于入之誅。 武伯、追って | | | しょ | | | | | これを斬って以て | となふ。諸族、喜躍響応す。伝へて | | | | ちゅう | ふ。 武伯は、追跡の上 | | | しょを捕獲し、 | | | | これ(夏莫且)を斬って人々に示し知らせた。諸族は、喜躍響応した。これを「 | | | | ちゅう」と | い伝えている。
夏莫且という人物が武伯に捕獲され、寧羲騅によって斬られた様子が描かれている。
夏莫且は東族語による人物名表記であると考えられるから、東族出身だが裏切った者ということになる。
浜名氏は粛慎族の長のことであろうとするが、これは23章の解釈の誤りに基づくものなので、採ることはできない。
ただ、諸族の喜びようからして相当な重要人物であったのであろうと思われる。
| | | | ちゅうは、の兪于入とは、何か誅する際の手法を表しているのではないかと浜名氏は推測しているが、おそらく夏莫且が誅された場所の東族語表記ではなかろうか。



第27章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
於是、降燕、滅韓、薄齊、破周。 | ここに於いて、 | えん | くだし、韓を滅し、齊に | せまり、周を破る。 | ここにおいて、 | えん | くだし、韓を滅し、斉に | せまり、周を破った。
ここでは親殷勢力の抵抗活動が続き、燕・韓・斉・周が彼らの巻き返しに会う様子が示されている。
ただ、韓を除いては、滅ぼすまでに至った訳ではなく、相応の戦績を収めた場合もあったということであろう。
ここで、韓は24章の韓と同じ(春秋戦国の韓とは異なる)。この国の滅亡(BC756年頃)の様子は竹書紀年に晋が滅ぼしたとわずかに見える程度で あるが、浜名氏はこの滅亡が実は親殷勢力によるものだったと解釈している。
ただ、浜名氏はこのBC756年頃に韓が今の北京近辺に存したと考えて上記の解釈を導いている のであるが、実際には今の陜西省に移転していたらしいので浜名説には疑問がある。
思うに、この国は北京近辺から陜西省に移転したと考えられるので、移転に追い込んだことを 「滅ぼした」と表現したのではないか。すると「滅ぼした」時期は浜名説より相当早まることになる (周の成王の頃か)。



第28章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
辰殷大記曰。殷叔老無子。當尉越之將旋于東。養密矩爲嗣。尋殂。壽八十九。督抗賁國密矩立。時尹兮歩乙酉秋七月也。 辰殷大記に曰く。殷叔老いて子無し。 | | | まさに東に | めぐらんとするに当り。 | | を養ひて嗣と | す。 | いで | す。寿八十九。 | | | | | | 立つ。時に | | | | いつ | ゆう秋七月也。 『辰殷大記』に曰う。殷叔は老いて子が無かった。 | | | まさに東に | めぐろうとする時に際し、 | | を養って継嗣と | した。その後ほどなくして亡くなった。寿八十九。 | | | | | | が立った。時は | | | | いつ | ゆう | きのと | とり)の年の秋七月である。
本章では、辰沄殷王の死とその後継者の即位について述べられている。
ここでは、一章だけ『辰殷大記』からの引用が挿入された形になっている。

殷叔は辰沄殷の王、子叔釐賖のこと。よって前章の内容の全てが本章の時点で既に実現していたとまではいえないかもしれないが、 前章にみられたような親殷勢力の攻勢は本章の時点にも存したという趣旨であろう。
尉越が難解の語であるが、これは、東族宗家の王の居所というような美称・尊称ではなかろうか(30章の解説で改めてのべる)。
東に旋るというのは、24章の翳父婁の都に戻るというような意味で、要するに、前章に見られるような殷系勢力の増大傾向の中で、王も翳父婁の都から西方に移動(動座)して指揮をとっていたが、 老齢もあり、翳父婁に帰還することになったのではないかと考える。
この点、浜名氏は尉越は有力貴族に与えられる称号であり、ここでは | | | ぎの | みことである寧羲騅を表すもので、「旋る」とはニニギの尊が東表に帰還することを指すとするが、 その前提が私の解釈とは異なっている。

殷叔が養子とした督抗賁国密矩は不明。督抗賁という国の密矩とも読めるが、本古伝に頻出する六音の人名の一種のようにも思える。 (浜名氏の解釈によると、督抗賁国密矩は尉越である | | | ぎの | みことの子であり、殷叔の養子となったのだという。するとこの時から辰沄殷の王家は寧羲氏の子孫の系統に移ったことになるが、疑問とせざるを得ない。)

なお、東族語と思われる | | | の意味は不明とされるが、東族独自のカレンダーシステムに基づく表記であることを示すものであろう。



第29章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
賛繼前言曰。爾來跳嘯三百餘載。時運漸不利。伯分爲二。一連於弁、一入于秦。秦自是益豪。燕亦加彊。殷遂以孛涘勃大水爲界。讓曼灌幹之壤而東。 賛、前言を継いで曰く。 | | らい | せう三百余載。時運、 | やうやく利あらず。伯、分かれて二と為り、一は | はんに連なり、一は秦に | る。秦、 | これより | ますます豪にして、燕も | また彊を | くはふ。殷、遂に | | | 大水を以て界と為し。 | | | かむの壌を譲って | ひがしす。 (『費弥国氏洲鑑』の)賛が前言を継いで曰うには。それ以来跳嘯三百余年、時運はしだいに不利となった。伯は二つに分かれ、その一つは弁に連なり、一つは秦に入った。秦は、 | これより | ますます強くなり、燕もまた境界を拡張した。殷は、遂に | | | 大水を境界とし、 | | | かむの地を譲って東に移った。
本章では大いに時間が経過する中で、伯族が離散する様子がまず描かれ、後半では、さらに年数が経過した後に、辰沄殷が燕に圧迫されて領地を失う経緯が描かれている。

前言を継ぐというのは、27章の内容に続けて、という意味であろう。
弁というのは後ほど登場する弁那と同じで、匈奴のことである(一風変わった表記であるが、弁那についての記述上匈奴を指すことは明らかである)。
孛涘勃は東族語による河川名。曼灌幹は魏略の満潘汗のことと解されるが、その位置には争いがあり、また辰沄殷の今後の移転先との関係でもその位置特定には難しい問題が生じる。
浜名氏は孛涘勃は大淩河のこと、曼灌幹はその西岸とする。なお、この時割譲した土地は一説に千里というが、32章の(辰沄)殷の故地千里と同じものを指すか。



第30章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
於是殷大築味諏君德、前孛斐禮水險、背介盟敦海岱、右踰薛葛柵于撻牟母而為固、托脇於大辰之親而為依、以孛涘渤為外塹。内新興神廟、祭察賀亶唫、號爲和餼城。 鞅委王贈以蠙劍副之。東表崛靈[言+冉]載龍髯所貽之物云。又配祠宇越勢旻訶通宇越米旻訶通于占欝單密之山。國復振焉。 | ここに於て殷大いに | | | | に築き、 | | | の水険を前にし、 | | | | かい | たいを背にし。右は | | | へて | | | | さくして固めと為し。 | わきを大辰の | しん | たくして | たよりと為し。 | | | を以て外塹と為す。内 新たに神廟を興し、 | | | | を祭り、号して | | 城と為す。 | | 王贈るに | ひん | けんを以て | これ | ふ。東表の | | [言+冉] | | | | | おくる所の物と云ふ。又 | | | | | | | | | | | | とを | | | | の山に配祠す。 | くに | また | ふるふ。 この時において辰沄殷は大いに | | | | に建設して、 | | | の水険を前に、 | | | | かい | たい(海山)を背にした。右は | | | えて | | | | さくを設けて固めと為し、 | わきを大辰(36章参照)との親交にまかせて | たよりと為し、 | | | 大水を | そと | ぼりと為した。国の内に新たに神廟を興し、 | | | | を祭り、 | | 城と号した。 | | 王から殷へ贈り物があったがその際に | ひん | けん | えてあった。これは 東表 の | | [言+冉] | | | | の贈る所の物と云うことである。殷はまた | | | | | | | | | | | | とを | | | | の山に配祠した。国は | また盛んになった。
本章では、辰沄殷の復興が語られるが、紀元前の日本にあったと思われる「東表」の王についての言及がある点でも興味深い章である。

本章でいう辰沄殷の都の所在地である | | | | がどこかは、難しい問題だが、浜名氏は海城(遼東の地名)に比定している。
| | | | | | | | | | | は、 東族語による地名表記。浜名氏は、 | | | は淩河、 | | | は旅順とする。
大辰は、辰沄殷と紛らわしいが、36章の辰と同じであって、その領域については、36章の解説で触れる。

蠙剣について、浜名氏は、真珠で飾った剣の意味としているが、あるいは真珠光沢のある貝殻で装飾した剣のことかもしれない。
| | 王が何を指すかは難解である。ただ、日本に所在する東表が | | 王経由で贈り物をしているのだから、辰沄殷と東表の間にその王は居ることになる。 すると大辰の中の | | 勢力の王と解すべきか。(ならば37章の | | | | 氏と同じと解するのがよいか。)

ところで、 | | [言+冉] | | | | は東表の王であって、その王家は5章にいう | | | | 氏であるが、 東表が、日本のどこに存在したかは難問である。
鹿島氏は、古い製鉄遺跡のある大分県であろうという。 浜名氏は、そもそも東表=日本であり、その王 | | [言+冉] | | | | とは孝霊天皇であるとする。 また、東表=出雲とする説もある。
少なくとも、 | | [言+冉] | | | | は 日本の上古の天皇ではないと 解されるので浜名説は妥当でない(詳しくは別に述べる)。東表の候補地としては、他に九州の有明海側や博多湾岸、本州も考えられる。

ところで、神廟に祀った | | | | であるが、浜名氏はこれをこの地方の開拓神である16章の | | | | であるとする。 浜名説がなぜそう解したか分からないでもないが、ここは大いに新都建設をし、神廟も大いに築いて国として祭祀を行うのだから、辰沄殷の国としての中心的な宗廟に祭られるべき神聖な存在であろう。

| | | | | | | | | | | | とを | | | | の山に祀った点について。
| | 」は28章の | | と同じ語ではないかと考えられる。そして | | | | | | は歴代の王、 | | | | | | は歴代の后 を意味し( | は男性を[cf和古語「背」]、 | は女性を表す語尾ではないか)、 | | | | とは | | | | を意味すると解するのが自然ではではなかろうか。
このことから逆に考えると、 | | | | に祀られる神は、歴代王のさらに祖先にあたるような、根本的祖神(群)ということになるのではないか。

| | | | の山の具体的な場所としては、浜名氏は遼東の千山とする。



第31章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
先是宛之徐。濟海舶臻。倚殷居於宛灘。闢地數百千里。築弦牟達、稱昆莫城、國號徐珂殷。 | これより先、 | えんの徐、海を | わたり舶臻し、殷に | | | | り。地を | ひらく数百千里。 | | | に築いて | | 城と称し、国を | | | いんと号す。 これより先、 | えんの徐(族)が、海を | わたって船舶で到来し、殷に近接した | | の地に居て。地を | ひらくこと数百千里、 | | | に都市を築いて | | 城と称し、国を | | | いんと号した。
ここでは、徐珂殷の建国が語られる。この国のことは他書には見えないが、当古伝においては後の章にも登場する存在である。

| えんの徐というのは、中国の太平洋に面する淮徐地域、あるいはさらに南方の勢力と考えられる。
このような勢力が、遠征により辰沄殷近辺に国を建てたというのは他に見えない事件である。
| | は、浜名氏によれば遼西の塔子河上流を指すという。その地からさらに東方を開拓して弦牟達の地に都市を建設したとされる。



第32章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
至是燕築塞繞曼灌幹。城曰襄平。將又越孛涘渤强行阻斷。二国伐燕克之、踰渝及孤竹、盡復殷故地。及秦滅燕、乃與之約。郤地千里、以孛水爲界如故。 | ここに至り、燕、塞を築いて | | | かむ | めぐらし。 | きづいて襄平と曰ふ。 | まさ | また | | | を越えて阻断を強行せんとす。二国、燕を | って | これ | ち、 | | えて | | ちくに及び、 | ことごとく殷の故地を復す。秦、燕を滅するに及んで、 | すなは | これと約し。地を | しりぞくる千里。孛水を以て界と為すこと | もとの如し。 この時に至り、燕は、要塞を築いて | | | かむの地に | めぐらし、城郭都市を築いて | じょう | へいと曰った。(そして燕は) | まさに再び | | | 大水を越えて(二国間の)阻断を強行しようとしていた。二国(辰沄殷と徐珂殷)は燕を | って | これ | ち、 | (渝浜)を | えて | | ちくの地に及び、 | ことごとく辰沄殷の故地を復した。(その後)秦が燕を滅ぼす事態に至った。そこで(殷は)秦と約し、地を | しりぞくこと千里。以前と同様に孛水(孛涘渤大水)を以て境界とすることになった。
本章では、辰沄殷と前章で誕生した | | | いんが協力して燕に対抗する様子が描かれたあと、後半では燕が秦に滅ぼされた後の辰沄殷領の変遷について述べる。

| | | かむは29章参照。襄平の位置について、通説は遼陽とし、浜名氏は大淩河沿いの地とする。
孛涘渤は東族語による河川名(29章参照)。渝は25章の渝浜参照。孤竹はその西方にあった国とされる。
秦が燕を滅ぼしたのはBC222年。
せっかく辰沄殷が旧地を回復したのにそれを秦に与えた(合意の上で)のは、秦が東族であること(後の章参照)から、防御を委ねる等の都合もあってのことか。



第33章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
秦忽諸不祀。夫胥子有秩。率其衆來歸。殷舍之白提奚。爲都岐越。 秦は | こっ | しょとして | まつらず。 | | の子 | | 、其の衆を率ゐて来帰す。殷 | これ | | | | き、 | | | と為す。 秦は | たちまちのうちに亡び | まつらざる者となった。 | | の子の | | が、其の衆を率いて(辰沄殷に)来帰した。殷は | これ | | | | き、 | | | と為した。
秦が中国を統一して間もなく滅びたことと、辰沄殷に逃れてきた始皇帝の孫に対する処遇について述べる。

夫胥は秦始皇帝の長男扶蘇のことらしい。その子とされる有秩のことは他の書に見えない。
| | | は東族語による地名表記。都岐越は不明とされる。 ただ、辰沄殷が秦の皇族を保護している様子は窺える。よって、秦が東族に属することは確かであろう。 (これは、秦の出自が東方かそれとも西方寄りかという問題の如何によらずそうである。)



第34章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
燕瞞說殷曰、請背水而國以禦漢寇。殷納封之姑邾宇。瞞又說漢曰、胡藏秦華胄請滅之爲郡以絶後患。漢喜給之兵仗。瞞襲取殷、漢進郡阻徐珂。殷王奔辰、秦氏隨徙。殷亡。瞞乃案智淮氏燕故事、以之紀國曰朝鮮。始達周武之志也。 燕瞞、殷に説いて曰く。請ふ、水を背にして | くにし、以て漢寇を | ふせがんと。殷、 | れて | これ | | | に封ず。瞞、 | また漢に説いて曰く、胡、秦の華 | ちうを蔵す。請ふ、之を滅して郡と為し、以て後患を絶たんと。漢、喜んで | これに兵仗を給す。瞞、襲って殷を取り、漢、郡を進めて | | を阻む。殷王、辰に | はしり、秦氏随って | うつる。殷亡ぶ。瞞、 | すなはち智淮氏燕の故事を案じ、之を以て国に紀し、朝鮮と曰ふ。始めて周武の志を達せるなり。 燕瞞(衛満のこと)は辰沄殷に説いて曰った。「水を背にして国し、それによって漢寇を | ふせぎたいので許可して頂きたい。」殷は、これを聞きいれて、瞞を | | | の地に封じた。瞞は又また、漢に説いて曰った。「胡(異民族=辰沄殷のこと)が、秦の華胄(皇族)を蔵匿している。これを滅して(漢の)郡と為し、それにより | のち | うれいを絶ちたいので許可して頂きたい。」漢は喜んで瞞に兵仗を与えた。瞞は襲って辰沄殷の地を取り、漢は郡の領域を拡張して | | 殷を阻んだ。辰沄殷の王は、辰に | はしり、秦氏もそれに随って移動した。辰沄殷は亡んだ。瞞はそこで、智淮氏燕(=辰沄殷)の故事をかんがえて、これを(滅んだ)一つの王朝の記録としてしるし、(その王国の名として)朝鮮と名づけた。ここに始めて周の武王の志が達成されたのである。
本章では、燕瞞が前漢の兵力を用いて辰沄殷を滅ぼしたこと、辰沄殷の王が南方へ移動したこと、燕瞞が辰沄殷のことを朝鮮と呼んだこと等が記されている。


燕瞞はいわゆる衛満のことである。その姓は不明で、衛氏というのは便宜的呼称とされる。
| | | は東族語による地名表記。
辰沄殷の王が移動した先である辰については36章以下参照。前章で辰沄殷を頼って来ていた秦の皇族も共に移動したと述べられている。

最後に、辰沄殷が燕瞞によって朝鮮と呼ばれたことを記している。朝鮮という呼称はこの時が初出で、それ以前の時点について史書が「朝鮮」の語を用いている場合があるが、遡及的に記されたものに過ぎないと浜名氏は考えている。
これによって、辰沄殷が一般には箕子朝鮮と呼ばれることになった。ただ、この朝鮮と、現在の朝鮮とは名前は同じでも、その実体に大きな差があると思われる点に注意しなければならない(24章の解説参照)。

なお、もしかすると本古伝は、智淮氏燕を省略した言い方が朝鮮である、いいかえれば朝鮮の語源が智淮氏燕であると主張しているようにも思え、私も、もしそうならそれはでたらめであろうとかねてから考えていた。
特に、氏燕が鮮となる点が嘘めいているが、最近になってそうともいいきれないと思うようになった。なぜなら21章の「 | | | 氏洲鑑」と同じように、「智淮氏燕」の「氏」も何か東族語の言葉・音が反映されたものであるかもしれないからである。

武王の志が達成されたというのは辰沄殷が滅びたことをいう。ただ、本伝では辰沄殷のことを単に殷と記すことが多い(本サイトの現代語訳等では辰沄殷と明示した場合も多い)からすると、辰沄殷は殷朝の継続という側面があると強調したいのかもしれない。 そう解するならば確かにこのときになってようやく武王の意図した殷朝打倒が達成されたことに(一応)なるわけである。
なお、これに関連していえば、殷の王族の子孫は他にもいるとされているし、王族を担いで周の王族が起こした反乱等もあるが、本古伝では触れられていない。反乱については一時的かつ周の王族の道具のようであるし、 また他の子孫については子孫であっても王位を主張していない以上正統ではないということになるのかもしれない(子孫を冒称している場合もあろう)。



第35章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
於是、瞞要漢反故。漢去但巫志、心甚啣之。徐珂王淮骨令南閭峙、欲爲殷報讐、謀之於漢。漢誓不郡、許以王印爲證。及洛兎出、南閭峙憤恚自刎。子淮骨令蔚祥峙、襲破遼東、斬其守彭吾、率國合潘耶。潘耶乃大焉。 | ここに於いて、瞞、漢に | もと | かへらんことを | もとむ。漢、 | | | を去り、 | こころ | はなは | これ | ふくむ。 | | | | | | | | 、殷の為に | あだを報ぜんと欲し、 | これを漢に | はかる。漢、郡とせざるを誓ひ、許すに王印をもって | あかしと為す。 | らく | 出づるに及び、南閭峙、 | ふん | して | | ふんす。子、 | | | | | | 、襲って遼東を破り、其の守 | ほう | を斬り、国を | ひきゐて | | | がふす。潘耶 | すなはち大なり。 この時において、瞞は、漢に | もと(の郡界)に | かえるように要求した。漢は | | | を去ったが、内心 | はなは | これを恨みに思った。 | | (殷 | いんの)王 | | | | | | は、殷の為に復讐を遂げたいと思い、このことを漢に | はかった。漢は、郡としない(=徐珂王が支配してもよい)ことを誓い、その許可の | あかしとして王印を与えた。 | らく(楽浪郡)・ | (玄菟郡)が出現する事態に至り、南閭峙は、憤怒の余り | | ふんした。子、 | | | | | | は、襲って遼東を破り、其の大守 | ほう | を斬り、国を | ひきいて | | (扶余)に合流した。潘耶はそのため大となった。
本章では、燕瞞が漢との約束に反し辰沄殷の跡地を自らの王国として漢を怒らせたこと、それを利用して徐珂殷の王が燕瞞への復讐を図ったこと、燕瞞勢力滅亡後の漢による郡設置、徐珂殷の王の自殺、その子による徐珂殷の扶余への移動・合併が 語られている。

洛(楽浪郡)・兎(玄菟郡)が出現したというのは、燕瞞(衛満)の建てた国が滅びたこと(BC108年)を前提にしている(滅びた都の跡地に漢が楽浪郡を設置した)。
すると、本章の経緯からすれば滅ぼしたのは淮骨令南閭峙ということになりそうだが、そうは明記されていない。
おそらく、南閭峙は辰沄殷の旧都から燕瞞勢力を追い払うことには成功したが、燕瞞勢力が平壌方面に逃れて抵抗を続けたため、その地を前漢が 時間をかけて攻略して燕瞞勢力を滅ぼしたということになろうか。淮骨令蔚祥峙が、楽浪太守でなく 遼東太守を斬っているのは、淮骨令蔚祥峙のいた場所が楽浪郡の中心からは遠いことを意味しているのかもしれない。

本書の淮骨令南閭峙は、史記等に濊君南閭寺、穢君南閭等などとして登場する人物と同一人らしい。この人物はBC128年に漢に投降したとされ ているが本書によれば講和ということになろう。史記でも、投降後設置されたという郡が程なくして廃止されており、これが本古伝の「漢郡とせざる」ということらしい。

徐珂殷の王である淮骨令南閭峙は、淮骨令という姓のような称号のような名を冠しているが、これは王が淮徐地域から到来したことと関係あり、淮族の王侯であることを 示す尊称なのであろう。ただ、淮族全体の王でないことは明らかである。なぜなら現に智淮氏燕(辰沄殷)が存在しているからである。 だから、前漢が濊君と呼んでいるのも、淮族の王侯という意味をもっていると解される。ここで濊という字を用いたため、朝鮮東部~満州方面の濊族と紛らわしいことになった。

さらに、淮骨令南閭峙の子蔚祥峙が国ごと扶余の地へ移動して扶余と合併したというのは、他に見えない記事である。
そうすると、扶余について史書は「濊王之印」とか「濊城」とか記しているのは、従来、扶余=濊であることの証拠であるとされてきたところであるが、 むしろこれは徐珂殷が扶余の地に入ったことの痕跡で、濊王之印というのは蔚祥峙の父が漢から得た本章の「王印」ではないかとも思える。
そうだとすれば扶余=濊というのは、淮の一派と濊とを混同したことによる誤解で、その誤解がさらに扶余と淮と濊との混同を生むことになるわけである。



第36章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
於是。辰以蓋馬大山爲固。以奄淥大水爲城。拒漢、碎破其眞敦之志。 | ここに於いて、辰、 | | 大山を以て固めと為し、 | あふ | 大水を以て城と為し、漢を | ふせいで其の | しん | とん | こころざし | さい | す。 この時において、辰は、 | | 大山を以て固めと為し、 | あふ | 大水を以て城と為し、漢を | ふせいで其の | しん(真番郡) | とん | りん | とん郡)(の両郡設置)の意志を | さい | した。
本章では、辰沄殷の隣国であった辰が、辰沄殷滅亡後にとった防御策について述べる。

辰は第30章の大辰と同じで、いわゆる伝説的な辰国のこと(古代、朝鮮半島の新羅・任那・百済の地にかつては辰韓諸国・弁辰諸国・馬韓諸国が存在したことは周知であるが、それらの地はみな | いにしえの辰国であったという)。 したがって朝鮮半島南部にあった国ということになるはずだが、本章の | あふ | 大水を鴨緑江と解する限り、今の朝鮮半島北部にまでその影響が及んでいたことになる。
浜名氏の見解では辰国の中心はむしろ朝鮮北部であり、馬韓も当然朝鮮北部まで及んでいたとする。
これは極端な見解であり、馬韓は朝鮮南部を中心に考えるべきではあろうが、ただ、魏志の韓伝によると馬韓諸国の中には靺鞨のような異文化をもつ国があることが示されており、それは馬韓が異文化の部族をも包摂する存在であったことを意味するようにも思われるから、馬韓が半島北部に及んだという浜名氏を完全には無視できないようにも思われる。
そうだとしても漢の楽浪郡が平壌辺りにあったとすれば、完全に漢の勢力を排除はできなかったことにはなるが、 臨屯郡・真番郡の排除には成功したということになろうか。(実際、両郡は漢によって廃止されている[一部は楽浪郡に合併]。)

蓋馬大山は、朝鮮半島北東部の摩天嶺山脈である。



第37章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
蓋辰者古國。上代悠遠也。 蓋し辰は古国、上代悠遠なり。 思うに辰は古国であり、上代悠遠である。
傳曰。神祖之後。有辰沄謨率氏。本與東表阿斯牟須氏爲一。辰沄謨率氏有子。伯之裔爲日馬辰沄氏、叔之裔爲干靈辰沄氏。干靈岐爲干來、二干隔海而望。干來又分爲高令云。然有今不可得攷焉。 伝に曰く。神祖の後に、 | | | | 氏有り。 | もと東表の | | | | 氏と | いつたり。辰沄謨率氏、子有り。伯の裔を | | | | 氏と為し、叔の裔を | | | | 氏と為す。 | | | わかれて | | と為り。二干、海を隔てて望む。干来 | また分かれて | | と為ると云ふ。 | しかれども今 | かんがふることを | べからざるもの有り。 伝は次のように曰う。「神祖の後裔に、 | | | | 氏が有る。 | もと東表の | | | | 氏と一つであった。辰沄謨率氏には、子が有った。年長の子の後裔を | | | | 氏といい、年少の子の後裔を | | | | 氏という。 | | | わかれて | | となり。両干は海を隔てて(互いを)望む。干来はまた分かれて | | となった」と。しかれども今、 | かんがえを得ることができないものがある。
其最顯者爲安冕辰沄氏。本出東表牟須氏。與殷爲姻。讓國於賁彌辰沄氏。賁彌氏立未日。漢寇方薄、其先入朔巫達。擊退之。淮委氏沃委氏竝列藩嶺東、爲辰守郭。潘耶又觀兵亞府閭、以掣漢。 其の最も | あらはるる者を | | | | 氏と為す。 | もと東表の | | 氏に | で、殷と姻たり。国を | | | | 氏に譲る。賁弥氏立って | いまだ日あらず。漢寇、 | まさ | せまり。其の先、 | | | に入る。撃って | これ退 | しりぞく。淮委氏・沃委氏、 | ならびに藩を嶺東に | つらね、辰の為に郭を守る。潘耶 | また兵を | | | | しめし、以て漢を | せいす。 其の(=辰において)最も | あらわれた者を | | | | 氏という。 | もと東表の | | 氏から出た者で、殷と婚姻関係があった。(安冕辰沄氏は)国を | | | | 氏に譲った。賁弥(辰沄)氏が立ってまだ間もないころ。漢寇が、 | まさ | せまり、其の先は | | | に侵入した。(賁弥辰沄氏の辰朝は)これを撃退した。淮委氏・沃委氏は、ともどもに藩を嶺東に | つらねて、辰の為に外郭を守った。潘耶もまた兵を | | | | しめして、それにより漢を牽制した。
本章では、辰国における諸勢力の動向と漢に対する防御の様子が語られている。

本章は、前章にも登場した辰朝についての貴重な情報を提供するもので、特に、その王家が東表の王家の子孫であると記述が注目される。
ところで、古代の辰国が後に辰韓諸国・弁辰諸国・馬韓諸国となったことと絡めて、それを本書の○○氏と対応させようとしばしば試みられるが、なかなか成功しないとされる。
この一つの原因として本書にあらわれる五つの○○氏を並立的に捉えてしまうことが考えられる(浜名氏も「辰の五王統」などと表現している。)
本章をよく読むと、最初の方の「神祖の後に~」から「干来 | また分かれて | | と為る」までは「伝に曰く」の内容であり、しかもそれに対して「しかし今よくわからないものがある」と 疑問が呈するコメントが付されている。そこで本来、費弥国氏洲鑑にはこの「伝」とコメントの部分はなく、あとから注釈として(小さい字で)付加されていたものが写本の際に本文と一体化してしまったものと考える。
なぜなら、その部分を除外してよむと意味がよく通じるし、もし、もともと本章全体がまとめて記述されたのなら、 | | | | 氏の項で、東表の~と繰り返さずに「これもまた牟須氏から出た」とでも表現すれば足りるのではないだろうか。

そうすると、まず、辰の最大勢力は | | | | 氏という点を中心に考え、「伝」の部分は何か別次元の表現と考えるべきだろう(本文と名称は異なるが実は同じ勢力のことをいっている場合があるかもしれないことになる)。
そして、 | | | | 氏が馬韓につながる存在であることは確かといえる。なぜなら辰韓・弁辰・馬韓の中でが馬韓が最大とされているし、一説に辰韓諸国の王は皆馬韓種ともされるからである。

この馬韓というのはとりわけ倭国(日本)と関係が深いらしく、実は百済成立後も一部地域に馬韓勢力が残存し、倭国と親密な関係であったことがわかっている。

| | | | 氏について、実は、辰沄殷の王が34章で南方に移った点に関し、史書は王が馬韓の地に入り、その地の王となったと伝えている。
だから、 | | | | 氏が | | | | 氏に譲ったというのは、辰沄殷の王に譲ったと考えると、 | | | | 氏とはほかならぬ辰沄殷の王家ということになる。
また、費弥国氏洲鑑の費弥というのは、東族の宗家か何か特に尊い存在を指すとすればその内容とよく符合するところ、 | | | | 氏の賁弥もこれと同じと考えればよく 理解できる。

なお、伝の部分を含めた詳細は別途検討する。



第38章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
先是弁那有二汗落。曰縉耘伊逗氏曰縉耘刀漫氏。伊逗氏者殷密矩王孫所入而繼。淮伯諸族合于弁者、具瞻爲宗。中微兒孫或爲刀漫氏所鞠育。繆突幼有異相。刀漫忌憚之、質於鞅氏而急襲。繆突亡奔、迂而依殷。殷善外計、伯陰内應。繆突入爲沄翅報、 圍漢幾獲、轉掃弁殷之間、殷乃爲康。及繆突死於賄、伯復坎軻、久潜漠邊。至是辰招以率發符婁之谿臼斯旦烏厭旦之壤。高令乃之臻。 | これより先、 | はん | に二 | | 有り。曰く | | | | 氏、曰く | | | | 氏。 | | 氏は殷の | | 王の孫の入って | げる所なり。淮伯諸族の | はん | がふせし者、 | つぶさ | て宗と | す。中ごろ | にして、児孫、或は刀漫氏の | きく | いくする所と | る。 | ぼく | とつ、幼くして異相有り。刀漫、 | これ | | たんし、鞅氏に | しちとして急に襲ふ。繆突、亡奔し、 | して殷に依る。殷、 | く外に計り、伯、 | ひそかに内に応ず。繆突、 | りて | | | | り、漢を囲んで | ほとん | 、転じて弁殷の間を | はらい、殷 | すなは | かう | る。繆突 賄に死するに及び、伯、 | また | かん | し、久しく漠辺に | ひそむ。 | ここに至り辰、招くに | | | | 谿 | たに | | |   | | | | じゃうを以てす。高令、 | すなは | いたる。 | これより先、 | はん | に二 | | が有った。 | | | | 氏・ | | | | 氏という。(この内) | | 氏は、殷の | | 王の子孫が(養子に)入って継承したものである。淮伯諸族で | はんに合流した者は、(この事情を)よく観察して、( | | | | 氏を)かしらと仰いだ。その後一時(縉耘伊逗氏は)衰え、その子孫は時として刀漫氏が | きく | いくする所となった。(当該子孫の一人である) | ぼく | とつは、幼くして異相(=普通の人と異なった人相)を有していた。刀漫はこれを | | たんし、(繆 | ぼく | とつを)鞅氏(=月氏)に人質に出した上で急に襲った。繆突は亡奔し、迂回しつつ(辰沄)殷に依った。殷は善く外に計り、(弁の内部の)伯は、 | ひそかに内応した。(そこで)繆突は(弁に)入って | | | | り、 漢を囲んで | ほとんど(皇帝を)捕獲するところにまで至り、転じて弁と殷の間(の異族)を一掃し、殷はそれにより安康となった。繆突が(漢からの)賄賂により死に体となる事態に至り、伯は再び行き場を失い、久しく漠辺(=砂漠の辺境)に | ひそんだ。是の時、辰は、 | | | | 谿 | たに | | |   | | | | じょうを提供して招いた。そこで高令は(上記の土地へ)至った。
本章は、弁那(匈奴)における2つの部族について述べ、繆突(冒頓)の血統と匈奴帝国建設についての真相を述べるとともに、 繆突(冒頓)を支持した伯族の動静に絡めつつ、高令の一族が移動したことを示す。

弁那とは匈奴(きょうど、ふんぬ)のことである(29章の「弁」と同じ)。二 | | があったというその | | とは、文字上は首長の邑落といった雰囲気ではあるが10章の河洛、4章の固朗に通じ、東族の一族という 意味であろう(20章の「三 | | 」等にも類似した言い回しといえる)。それは本章における辰沄殷との関係から明らかである。
また、 | | | | 氏・ | | | | 氏の縉耘は辰沄と同じと解される。

この前者 | | | | 氏はある時期に辰沄殷の王・ | | | | | | の王孫を養子にもらって首長としたという。 婿養子的なものであろうか。他に見えない記述である。
弁那(匈奴)の中には、淮伯諸族のうち29章のような経緯で弁那(匈奴)に合流した者が混じっており、かれらはこの | | | | 氏の首長を主と仰いだという。 これも他に見えない。

さらに、この辰沄殷の地を引く | | | | 氏はその後衰えた時期があったという。弁那(匈奴)の中でも部族により殷朝との近縁性に差異があるのかもしれない。 そして時として | | | | 氏に養育されるにまで至っていたという。 | | | | 氏は部族としての独立性を失い、 | | | | 氏の首長の養子扱いになって いたということか。
そして、その養育されていた一人が繆突すなわちかの有名な匈奴の冒頓だという。
そして史書では冒頓の父・頭曼とされているのが本書の「 | | 」で、 | | | | 氏の首長らしい。つまり二人は実の親子では ないという。全く類を見ない記述である。
その後、刀漫が繆突を嫌い、鞅氏(月氏)に人質に出しておいた上で鞅氏を襲い、鞅氏に人質たる繆突を殺させようと企てたのはおおよそ史記と同じである。
しかしその後が異なる。脱出した繆突はすぐに匈奴に帰ったのではなく辰沄殷に保護を求めたという。血筋からすれば自然な選択ではあろう。 辰沄殷は弁那(匈奴)内の伯族と連絡を取り合い、それにより繆突は(刀漫を打倒して)匈奴に帰国し、かつ | | | の位についた。これは東族語で大皇の意味であるが、 歴史にいう匈奴の大 | ぜん | である。その後彼が大帝国を築いたのは歴史に残る通りである。
ただその後、繆突は前漢からの賄賂で野心を失い死に体となったという。
そのため弁那内の伯族は不利な立場に追い込まれたものか、放浪して砂漠の辺境に潜むことになったという。
そこで(注・この時点では辰沄殷は既に滅びている)、辰朝(前章等参照)がいくらかの土地を提供して彼らを招いた。これは漢に対する 防御に有用と見たものであろうか。そこで招きに応じて高令の一族がやってきたというのであるが、 ここにいくつか問題がある。
浜名氏は、やってきた高令は辺境に潜んでいた伯族ではなく前章の牟須氏系の高令で、最後の部分は「ところが高令が やってきた」と解するようである。ただ、「すなわち | いたる」とある以上、それは潜んでいた部族と解せざるを得ない。
したがってこの高令は、25章の高令(=高夷。25章解説末尾参照)のことと解するが、この高夷はおそらく淮族と伯族の混血で、29章の時に匈奴に 合流したものと考えられる。そして辰朝の招きに応じてやってきたのではないか。
さらに問題は残る。それは辰朝が提供したという | | | | がいわゆる卒本扶余であるとすると、 本章の高令とは高句麗そのものということになる。これは高句麗王家の神話とは全く一致しない点が問題となるわけであるが、詳細は別に検討する。



第39章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
又遣使伊鎩河畔。載龍髯酬以遠鎩河及頌卑離。乃亦令勃婁達修杜都那、置納祇米行高密帥志、禳寇云。鑑罄乎此矣。 又使を | | | | | つかはす。 | | | | むくゆるに遠鎩河及び頌卑離を以てす。 | すなは | また | | | をして | | | を修せしめ、納 | | を置いて | | | | を行じて、寇を | はらふと云ふ。鑑、 | ここ | く。 また、(辰は)使を | | | | | つかわした。 | | | は、遠鎩河及び頌卑離を提供して | むくいた。また、(辰は) | | | に命じて | | | を「修め」させ、納 | | を置いて | | | | | ぎょうじて、(敵の来)寇を | はらった。鑑(=費弥国氏洲鑑)は、 | ここで終わっている。
ここでは辰朝が東表(と思われる国)に使いを出したり、様々な方策を講じて、外敵の来寇に対処したことが記されている。

冒頭、伊鎩河畔というのをもし「伊鎩という河の河畔」とすると、「~河畔に使いを出した」となって意味が不明瞭となる。 よって、伊鎩河畔は地名であり、ただ河畔という字を使用することで、河の近くにある場所であることを示したものと考えられる。
次に、載龍髯は第30章の「東表 の | | [言+冉] | | | | 」の載龍髯と共通している。 そのことから、伊鎩河畔は日本のどこかにあると見るのが一般的だが、本章の載龍髯と | | [言+冉] | | | | との関係については諸説ある。
・崛霊[言+冉]載龍髯は | | [言+冉] | という土地の王、本章の載龍髯は伊鎩河畔載龍髯であり、伊鎩河畔という土地の王とする説(浜田説)
・載龍髯は天皇を意味し、崛霊[言+冉]、伊鎩河畔は天皇の宮の所在地を意味するとして、崛霊[言+冉]載龍髯は孝霊天皇、本章の載龍髯(伊鎩河畔載龍髯)は開化天皇とする説(浜名説)
などがあるが、「 | | [言+冉] | | | | 」自体が東表の王が名乗る尊称なのではないかとも考えられる。
その場合、本章の載龍髯も(時代は違うが)崛霊[言+冉]載龍髯ということになるし、また、伊鎩河畔は、東表の首都(またはそれに準ずる京)ということになりそうである。 浜名氏の考えは、載龍髯が天皇を意味するという点と、本章の載龍髯を伊鎩河畔載龍髯と解する点では私と異なるが、本章の載龍髯も第30章の載龍髯も東表を代表する王と解する点では共通している。

東表から提供した「遠鎩河及び頌卑離」については、不明とされている。
| | | に命じて~」以降も難解とされる。そもそも、浜名氏の解釈では、勃婁達(=諸国?)に命じる内容が、 | | | を「修め」る行為だけではなくて、 それ以降、「寇を | はら」うまでの全行為とされているが、種々の考慮の結果、私は上のように読んでみた(詳しくは別途検討する)。
なお、費弥国氏洲鑑からの引用は本章で終了する。



第40章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
洲鮮記曰。乃云訪于辰之墟。娜彼逸豫臺米與民率爲末合。空山鵑叫、風江星冷。駕言覽乎其東藩。封焉彼丘不知是誰。行無弔人、秦城寂存。嘻、辰沄氏殷今將安在。茫茫萬古訶綫之感。有坐俟眞人之興而己矣。 洲鮮記に曰く。 | すなは | ここに辰の墟を | おとなふ。 | | | | | | × | | | | × | ××××[工事中]。 | くう | ざんに鵑叫んで、風江に星 | ひややかなり。 | して | ここ | の東藩を | る。 | おほいなり | の丘。知らず、 | これ | たれなるを。 | みちに弔人無く、 | しん | じょう | じゃくとして存す。 | ああ | | | | いん | いま | はた | いづくにか | る。 | ばう | ばうたる | ばん | 訶綫之感。 | また | そぞろ | しん | じんの興るを | つのみ。 『洲鮮記』に曰う。そして | ここに、辰の墟を訪れた。 | | | | | | は、民率為末×合×[工事中]。 | くう | ざん(人のいない山)においては鵑が鳴き叫び、風の吹く河には星が冷たい光を照らす。 | して | ここ | の(=辰の)東藩を | る。 | おおいなるかな、 | の墳丘。 | これが誰(の墓である)かを知らない。 | みち | とむらう人も無く、 | しん(の) | じょう(域)が | じゃくとして存している。 | ああ | | | | いん。今いまどこに存在するのだろうか。 | ぼう | ぼうたる | ばん | 訶綫の感慨(にふける)。 | また | そぞろに(天命を受けた) | しん | じんが興るのを | つだけである。
本章は、辰の廃墟の様子を描いて一連の歴史の叙述に区切りをつけるとともに、天命を受けた真人の出現を期待して、次章以降で語られる契丹王家の故事につなげるものである。

しかし、本章は難解な点が多い。
まず、辰の廃墟というのは何の廃墟なのかという点について、 それが辰王たる | | | | 氏を指すという点はあまり争いがないが、 浜名氏はそれはあくまで馬韓系の王であるとする。しかし、前述のように、 | | | | 氏とは辰沄殷の子孫であり、事実上辰沄殷 の再興であったと考えられる。だからこそ本章で「ああ辰沄氏殷」と嘆いているのであろう。従って、実質は辰沄殷の遺跡とみるべきだろう。
また、本章で引用されている『洲鮮記』は、辰韓(前々章参照)諸国の一つである「洲鮮国」について記した書物と解するのが自然である。 すると洲鮮国に辰の廃墟があることになる。
ただ、浜名氏の解釈だと結局その国も朝鮮北部であるということになるらしい。
私は、通説通り洲鮮国は半島南部にあり、魏志の卓淳国と同じと考える、もっともその位置には2説あるが、詳しくは別に検討する。

次に、「娜彼逸豫臺米与民率為末合」については、浜名氏は「 | たる | | | | | 、民と | ひきゐて未合と | る」と読み、 「 | たる(=婀娜なる姿の[なよやかな風情の])  | | | | | が、民とともに率いて靺鞨(旧満州の東部辺りの部族)となった」、と解する。
これに対し、鹿島氏は、末合は未合の誤りで、未合とは | みま | のことであって、浜名氏は時代の制約から 止むをえず上のように解釈したにすぎないという。

そもそも、「娜」には「なよやかな」という意味があるが、 | たる | | | | | などというのは漢文の語順としてあまりに異様な解釈である。 そこで、娜を中国語の「那(あれ、あの)」のように捉え、娜彼全体で、「かの(人)」というような意味に解してみたが、指示語としての「那」は近世の俗語らしいから、この文献の成立時期自体が怪しくなりかねない。 また、与民率については、民を率いてではなく、民「と」率いてとしか読めず、その意味が不明瞭であるのも謎であった。
思うに、娜彼は「 | たる | の」でもなく「かの」でもないし、民率は、「民を率いて」でも「民と率いて」でもないと 解すべきだが、詳細は別に述べたい。


また、浜名氏によれば、逸予台米の逸予とは邪馬台国の卑弥呼の宗女壱予(台予)のことであり、彼女が朝鮮北部から末合(満州方面)へ移動したことになるという。
しかし、逸予台米は壱予でも卑弥呼でもなく、また彼女は満州にも任那にも移転していない点について詳細は別に述べたい。

いずれにしても、直後の物寂しい情景描写からすると、ここにあった | | | | 氏(実質は辰沄殷)の拠点が廃墟となった経緯に関する重要な何かが語られていることは確かであろう。

次に、「 | くう | ざんに鵑叫んで、風江に星 | つめたし」が、何か物寂しい描写であることは争いがない。(と思っていたが、 これを牧歌的理想郷の描写とするひどい解釈もあるらしい。それは空山の部分を「空に山鳥が~」と解したり「冷」を「涼しげ」と解するようだが、 漢文の対句表現が滅茶苦茶にされている。)この描写と、「大いなる | の丘」以下の描写との関係も案外難しい。
これは、「 | の(=辰の)東藩」というのが辰の廃墟とは別に存するものなのか、そうではないのか、という問題にもかかわる。
・全体として、辰の廃墟の描写であるという考えに立つと、この訪問は星の出る夕刻か何かに行われたことになる。
・浜名氏は、「 | くう | ざんに鵑叫んで、風江に星 | つめたし」は、移動後の逸予台米の運命を描いたものとするようである。 したがって、「大いなる | の丘」以下とは分けて考えるということになる。 しかし、浜名氏は、「 | の(=辰の)東藩」というのは辰の廃墟そのものではなく、廃墟の東方の秦氏の城というように解するので、 本章が辰の廃墟訪問記というより秦城観察記になってしまうという難点がある。

筆者は、これらの難点を克服する解釈を得ているが、詳しくは別に記す。
本章の最後では、辰沄殷はどこへいってしまったのかと嘆いている。「 | ぼう | ぼうたる」は、「広大な」と「覆われてよく見えない」の2つの意味がある。また、「訶綫」の訶は詞の誤りと思われ、詞は嗣(子孫)と同義、綫は糸であることから、詞綫とは家系、王統といった 意味と考えられる。したがって、ここは「茫茫」を後者の意味に解し、「悠久を誇る(辰沄殷の)系統がいまや埋もれてどこにいるかわからなくなってしまった。」と解釈できる。
そして、真人の興るをまつとは、聖なる偉人が天命をうけて東族を統括し威光を輝かせる日が再び到来するのを待つという趣旨であろう。



第41章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
天顯元年元朔。太祖天皇王、拜日乎東閣。丹鷄從日邊降。翔旋閣上。勅使旁求其所止。未得。 天顕元年元朔。太祖天皇王、日を東閣に拝す。 | たん | けい、日辺より降り、閣上に翔旋す。勅して | あまね | の止まる所を求めしむ。未だ得ず。 天顕元年元日。太祖天皇王(契丹初代皇帝 耶律阿保機)は、日を東閣に拝した。(すると)丹鶏が、日辺より降り、閣上に翔旋した。(そこで王は)勅して | の(丹鶏の)降り立った所を求めてあらゆる場所を探させた。しかし未だ発見できないままであった。
會同元年六月乙酉。丹鷄復現。因得奎瓏石于毉巫閭山。紅紫綫細、自然成文。卽古頌也。 会同元年六月乙酉。丹鶏 | また現はる。因って奎瓏石を | | | 山に | 。紅紫綫細、自然に文を成す。 | すなは | | しょう也。 (太宗=契丹第2代皇帝耶律堯骨の治世の)会同元年六月 | きのえ | とりの日。丹鶏が | また現われた。これによって | けい | ろう | せき | | | 山で見つけることができた。(その石は)紅紫綫細、自然に文を成していた。(これが) | すなは | | しょうである。
本章からは、契丹王家による | | しょう発見の経緯が語られている。
後の章にあるように、この | | しょうの発見こそが本古伝編纂のきっかけとなったのである。

天顕元年は西暦926年である。この年の元日に契丹(遼)の皇帝(太祖、耶律阿保機)が太陽を拝んだ際に、神鳥らしき丹鶏が皇帝の頭上を旋回したところから、 記述が始まっている。このように契丹王家には太陽信仰があった。その神鳥の行方を追ったが分からなかったという。
しかし次代の皇帝(太宗、耶律堯骨)の時(会同元年=西暦938年)に再び神鳥が現れ、追跡すると毉巫閭山に降り立ったという。毉巫閭山は第5章の毉父、第24章の翳父婁と同じで神祖の降臨地である。 さながら第3章で神祖が | | | | (高天使鶏)にのって降臨する様子を彷彿とさせる光景である。
するとその降り立った場所に不思議な石があり、赤紫の細いすじが入って自然に文字の形をなしていた。これが | | しょう(第43~45章に掲載)発見の経緯だという。
もちろんこれは皇帝を讃えるために美化された物語ではあろうが、 | | しょうが本古伝における神話の根本たる神祖と密接に関係するものであることを窺わせる。



第42章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
皇上喜然曰。朕之先者出自神子奇契丹燕矣。所謂炎帝者是也。五原於今不克復之、何以能見哉。朕當輙善也。於是、新興神廟于明殿之領、親齋進頌。 皇上喜然として曰く。朕の先は | しん | | | | | より出づ。所謂 | いはゆる炎帝は | これなり。五原今に | おい | これ | | ふくせざれば、何を以てか | | まみえんや。朕 | まさ | すなはち善くすべき也。 | ここに於て | あらたに神廟を明殿の領に | おこし、 | みづか | さいして頌を進む。 皇上(太宗。第2代皇帝)が喜然として曰うには、「朕は | しん | | | | | を祖とするその子孫である。所謂 | いわゆる炎帝とは奇契丹燕のことなのである。五原を今に | おいて回復することができないならば、いったいなぜ(このような奇契丹燕神の奇瑞を)見ることができようか。朕はすみやかに | く(五原回復を)行えるはずである。」そこで、 | あらた | しん | びょうを明殿の領内に建てて、皇帝 | みづから潔斎して頌(=上記の古頌)を捧げた。
契丹(遼)の太宗(第2代皇帝耶律堯骨)が前章(後半)の奇跡に喜び、自らの祖先神について述べるとともに、自らの決意を明らかにして新たに建立した神廟に今回発見された | | しょうをささげる様子が記されている。

| しん | | | | | とは、24章の | | | | と同じで、同章によれば | | | | の別号、つまり 第15章に登場した、神祖の子と考えられる | | | | | | と同一神ということになる。
この | | | | がいわゆる炎帝と同神というのは他にみえない。炎帝は神農氏(21章参照)と同一視される存在である。神農氏は牛首を有するとされるが、これは西族的な表現で、 | | | | | | の頭の刄角(15章)に相当するということかもしれない。
つまり、皇帝は自らも神祖の子孫である旨を述べ、前章後半の奇跡を見ることができたのは、その自分こそが(神祖がかつて開いた)五原の地を回復できることの証であると述べている訳である。
そこで、皇帝は新設した神廟に前章(後半)で発見された | | しょうを捧げる。その古頌は以下の3章に掲げられている。
なお、神廟は「明殿」の敷地内に立てられたが、「明殿」とは先代皇帝を偲ぶ為の建物で、あたかも先帝が生きて暮らしているかのような体裁を整えたものという。

ちなみに、『遼史』に、「君基太一神がしばしばあらわれた」という記述があり、本書の神と同じ神と思われる。ただし契丹王家の先祖とは書かれていない。
これに関し、君基太一神は道教の福の神であることを理由として本古伝をでたらめと非難する見解もないわけではないようだが、それは早計であろう。 道教は、儒教文化に比べ基層に存在する文化で、それは西族文化によって覆い隠された東族の文化の名残を伝えている可能性が高いという点を十分考慮すべきと考える。



第43章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
頌云。 | しょう云ふ。 | しょうは以下の通りである。
原文 読み 備考
辰沄繾翅報 斡南易羅祺 駿蔘冉謨律辨扈陪
蘊杜乍喃吟 綿杜乍喃密 伊寧枚薰汶枚氣冉
滿婆載娜摩矩泥克 羊袁暘弭沚緬
| | | | |   | | | | |
駿 | | | | | | | |
| | | | |  綿 | | | | |   | | | | | | | |
| | | | | | | |   | | | | | |
浜名氏のいう「古頌之一」。
当HPでは
第一 | しん | しょうと呼ぶ。



第44章
原文 読み 備考
辰沄繾翅報 斡南遏浪祺
億扈瑪尹冉濟 紆凱湄烏架樂遊
絶斿麗奄斿例 斡浸播圭婁可洛
資斿麗絆斿例 耶那奈資婁可洛
固牟畢滿呂魏克 遏浪謨納岐緬
| | | | |   | | | | |
| | | | | |   | | | | | | |
| | | | | |   | | | | | | |
| | | | | |   | | | | | | |
| | | | | | |   | | | | | |
浜名氏のいう「古頌之二」。
当HPでは
第二 | しん | しょうと呼ぶ。



第45章
原文 読み 備考
辰沄繾翅報 案斜踧岐 賁申釐倪叔斿厲
珂洛秦弁支廉 勃剌差笏那蒙緬
| | | | |   | | | |   | | | | | | |
| | | | | |   | | | | | | |
浜名氏のいう「古頌之三」。
当HPでは
第三 | しん | しょうと呼ぶ。
次章にもあるように、これらの詩文の意味は相当古い言葉で記されていて当時も意味不明であったとされる。
ただ、前々章、前章、本章の各神頌の冒頭にある「辰沄繾翅報」はあきらかに本書のいう東大国皇すなわち「『東の偉大なるもの』の国の皇」 を意味するから、東族古語で記されていると考えうる。
しかし、浜名氏は全てを和語で解釈しようとして例えば43章(第1神頌)の「 | | | | | | | | 」を「 | いな | | くも | | な(=おいで)」というように 解する有様で、残念ながら説得力に欠ける所があるといわざるを得ない。
したがって、その意味は、鋭意研究するとして、単純な決め付けは控えねばならないだろう。
なお、本章の第3神頌については魏志を参考にするという方法もあるが、それは決して所領名の列挙ではないということに留意すべきである(詳しくは別に述べる)。

これらの詩文は、「辰沄繾翅報」で始まっていることからも察せられるように、契丹王家に固有なものではなく、
[工事中ここから]まさに東族○○○○○○○神聖な詩であり、そう考えた時に、それは当然○○○○○○○○○○ はずであるし、さらに、本伝の○○の類型を考えると、さらに○○の○○○○にも○○しうる○○○ である可能性があり、○○の○○○に深く○○している可能性がある。 なぜ今これを発表するのか[ここまで工事中]



第46章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
應天太后徴諸學士曰。太祖有言。我先世葛禹圖可汗、冒稱神賚之甲。可汗其義猶言日神之體也。誰能究源流辨宗支者。因問頌義。學士恐惶對曰。隔世旣杳、語音亦革。雖旁求匪懈、古義未可遽攷也。太后曰。韻心所通、神必能格。輙攬而上諸琴、命樂人作譜。嚠渺森嚴、眞是神韻也。臣羽之、謹錄、竝爲之叙傳云。會同五年六月日 応天太后、諸学士を | して曰く。太祖言へること有り。我が | せん | せい | | | | | かん、称を | しん | らい | かふ | をかす。 | | かん其の義 | なほ日神之体と言ふがごとしと。 | たれ | く源流を | きはめ宗支を弁ずる者ぞ。 | って頌の義を問はる。学士 | きょう | くゎうして | こたへて曰く、世を | へだつること既に | はるかにして、 | | おん | また | あらたまる。 | ぼう | きゅう | おこたりなしと | いへども、古義未だ | にわか | かんが | からざるなり。太后曰く、 | いん | しん通ずる所、神 | かなら | | いたらんと。 | すなは | って | これを琴に | せ、楽人に命じて譜を作らしむ。 | りう | べう | しん | がん | まこと | これ | しん | いんなり。 | しん | | | つつしんで | しるし、並びに | これ | ため | でん | じょす。会同五年六月日 応天太后が、諸学士を集めて曰うには、「太祖がこう云われたことがある。『我が | せん | せい(=先祖、先代)の | | | | | かんは、 | しん | らい(神から賜ったもの=神宝)の | こう(=第一番目の物、筆頭。神賚の甲とは文脈上鏡を指すと思われる)の名を(自己の称号として)冒称したのであり、(実は) | | かんとは、あたかも日神の体と言うような意味である』と。誰か源流を究めて宗支(宗家と支族)を識別できる者はいないか。」そこで頌の意味を尋ねられた。学士は、恐れ | かしこまって | こたえて曰った、「時代を隔てること既に | はるかであり、語の音もまた変革してしまっています。 | ぼう | きゅう(広く探求すること)に | おこたりがあるわけではないが、古い言葉の意味をすぐさまに | かんがえることは未だできません。」太后は、「 | いん | しんが通ずる所に、神は必ずおいでになるであろう」と曰って、すぐさま(古頌を)手にすると | これを琴の伴奏に | せ、楽人に命じて譜(楽譜)を作らせた。(これを演奏すると) | りゅう | びょう | しん | がん(音声が遠くまで響き渡って荘厳であり)、 | まこと | これ | しん | いんであった。私、 | しん  | | は、 | つつしんで(この古頌を)記録するとともに、 | これ(=古頌)のための伝を | じょした次第である。会同五年六月某日

本章では、皇帝の母である応天皇后(述律氏)が亡き夫である先代皇帝の言を思い出し、契丹王家に伝わる古語と関係ありそうなこの古頌の意味を知ろうとするが 果たせず、自ら琴の伴奏で朗唱して詩の意味に近づこうとする様子が描かれている。

応天皇后が思いだしたのは、 | | | | | かんが名乗っていた可汗という称号は、実は神宝の最上位にある物の名を 冒称した呼称であって、それは古語で日神の体を意味すると語っていた先帝の言葉である。

ちなみに浜名氏は、 | こうを「最上位」ではなく「 | かぶと」の意味に解して、「神宝のかぶとの名を冒して | | | と名乗った」 と解するが、漢語の甲は | よろいを意味することからして無理であろう。そして | | | | | かんを、契丹王家の先祖の一人とされること もある葛烏菟という人物に比定するが、この人物が最初に | | かんの号を称したという言い伝えが存したと浜名氏は理解するのかもしれない。 ただ、この人物は記録上 | | かんと名乗ってはいない。契丹族の歴史上可汗号は常には名乗られていないし、本章の趣旨からは名乗った人物の一例を 挙げたに過ぎないと考えればそのように昔の人物でなくてもよいことになる。そこで「我が先世」の先世を前王の意味に解すると、耶律阿保機がかつて仕えた痕徳可汗(痕徳菫可汗)の ことかもしれない(痕徳を、非漢族名的に書くと | | | となるのではあるまいか)。

神宝の最上位にある物というのは、その意味が日神体であるとされるから、本古伝第1章の内容の内容に照らせば、鏡ということになる。ということは結局、可汗という有名な称号が、東族古語に由来することになるわけである。

皇后はこのような日神体とも由緒が深そうな今回発見された古頌の意味を知ろうとするが、学士の言う通りそれははるかに昔の時代の言葉で記されておりわからないという。 これは、古頌の文が相当古い時期に成立したことを示している。

そのあと皇后がこれを朗唱し、荘厳な響きがしたことは上記の通りである。

最後に、本古伝の編者(羽之)が、この神韻たる古頌を記録し、古頌に関連する事項を集めた本古伝を叙述したことを明らかにしている(これゆえ本古伝は神頌叙伝とも呼ばれることがある)。
編者の羽之というのは、一般には耶律羽之(東丹国[契丹が渤海を滅ぼした後に建てた国]の左次相)とされる。(契丹には同名の人物が多いので、厳密には 別人の可能性もある。)

最後に、会同五年六月日(会同五年[西暦942年]六月某日)という日付が書かれている。
思うに、本古伝は貴重な内容を含む一篇でありながら、その表題を欠くとともに、第23章の「朱申の宗」といった重要概念についての 説明を欠くなど、不審なところもある。したがって、本古伝は未定稿(未完成)なのではなかろうか。
それゆえ、会同五年六月某日というのは完成目標年月を示したものであって、実際にはそれ以前に何らかの事情により執筆中断のやむなきに いたったのではないかとも思われる。


2013.2.1




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